和泉庄
いずみのしよう
古代出水郡の郡域に成立した庄園。泉庄とも書いた(寛喜元年一〇月六日「六波羅下文案」肝付文書など)。古代末期、出水郡から莫禰院・山門院が分出、残る地域が庄園化して当庄になったと考えられる。なお中世の初め頃まで史料に散見する「和泉郡」は、当庄の前身であったと思われる。庄域はおおむね現在の出水市域のうち、老松庄に含まれていたと考えられる荘地区や山門院のうちであった針原地区などを除いた地域に比定される。建永二年(一二〇七)四月一三日の肝付兼保譲状案(肝付文書)によれば当庄の四至は東は神河、西は石坂、南は紫尾山高尾、北は海であった。神河は現在の熊本県水俣市袋の神ノ川に、石坂は出水市西出水町の石坂にあてられ、紫尾山高尾は具体的な比定地は未詳だが、出水市と薩摩郡宮之城町の境には紫尾山がそびえている。当初庄園の中核は米ノ津川の下流域であったと考えられるが、一三世紀末に当庄から分出した和泉新庄には折小野(折尾野)、鍋野、宇津野々(宇都野々)などの地(いずれも武本のうち)が含まれており(正応五年四月七日「伴保道譲状」同文書)、米ノ津川の上流域に向かってさらに開発が進められていったことがうかがえる。
天承二年(一一三二)七月二一日の僧経覚解(近衛家本「知信記」同年巻裏文書)によれば当庄の前身である和泉郡は牛屎郡(牛屎院、現大口市)・日向国真幸郡(真幸院、現宮崎県えびの市など)などとともにこの頃すでに島津庄の一部となっており、例進年貢は「和泉郡所役」であった。薩摩国建久図田帳では島津庄の一円庄のうちに和泉郡三五〇町がみえ、地頭は島津忠久、下司は伴(肝付・和泉)兼保であった。忠久の後、当庄地頭職は忠久の後家一期分となり、その死後は忠久の子忠時に返却されることになった(嘉禄三年一〇月一〇日「将軍家安堵下文」島津家文書)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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