網町(読み)あみまち

日本歴史地名大系 「網町」の解説

網町
あみまち

[現在地名]大津市西にししよう木下町きのしたちよう

西ノ庄町から相模さがみ川を渡って枡形の道を進むと網町で、片側町。慶長六年(一六〇一)西ノ庄村域に町割が行われ、漁夫の居住地とされたという。東海道筋の町並は元禄一五年(一七〇二)の膳所総絵図(中村家蔵)町名みえ、一八四間余で、家数三五。膳所藩明細帳では家数三七・人数一五六、漁業用の中船三艘を所持していた。枡形をなす一画には番所が置かれたというが、分間延絵図では高札があるのみ。この角地にある響忍こうにん寺はもと家老村松八郎右衛門の屋敷で大砲を据える台場と防塁が築かれていたとされ、また膳所城築城に伴い付替えられた相模川は堀の役割をもち、当町が大津方面からの攻撃に対する第一の防御線であったといえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

関連語 殉節 料亭

敵を欺くために、自分の身や味方を苦しめてまで行うはかりごと。また、苦しまぎれに考え出した手立て。苦肉の謀はかりごと。「苦肉の策を講じる」...

苦肉の策の用語解説を読む