日本歴史地名大系 「膳所城下」の解説 膳所城下ぜぜじようか 滋賀県:大津市中部地域膳所城下[現在地名]大津市本丸町(ほんまるちよう)・丸(まる)の内町(うちちよう)・西(にし)の庄(しよう)・昭和町(しようわちよう)・木下町(きのしたちよう)・膳所一―二丁目・中庄(なかしよう)一―二丁目・御殿浜(ごてんはま)・杉浦町(すぎうらちよう)など最大七万石の領知を経営した膳所藩の建設した城下町。琵琶湖の最南端部、瀬田(せた)川に続くその西岸に営まれるが、古代以来の水陸交通の要衝で政治・軍事上の最重要地であることは、慶長五年(一六〇〇)九月の関ヶ原の戦後も変わらず、歴代膳所藩主は京都・大坂の押えとしての役割を任じられた。城下町もそうした性格の強い政治都市であり、商業町としては西隣の大津町に依存するかたちとなっている。〔城下町の構成〕建設地は中世以来の粟津(あわづ)の一帯で、北より西ノ庄・木ノ下・膳所・中ノ庄・別保(べつぽ)の五村域にわたる。城下の北西の入口を大津口総門(北総門・西総門とも)、南の入口を勢多(せた)口総門(南総門とも)とし、両所に番所を設置し、城下を限っていた。膳所城の慶長六年からの築城に伴って城下の町割が進められたと考えられるが、正保期(一六四四―四八)の膳所城絵図(内閣文庫蔵)、寛文二年(一六六二)の膳所城絵図(滋賀県庁蔵)などでは侍屋敷地・商人町などのおよその構成が知られ、元禄一五年(一七〇二)の膳所総絵図(中村家蔵)や嘉永期(一八四八―五四)とされる幕末膳所城下図などにより、町名ほかの具体的なあり方がわかる。幕末城下図によれば、城下建設は南北に通る東海道と琵琶湖岸がポイントで、湖岸に突出した本丸以下藩の政庁などの主要施設や有力家臣の屋敷地は、湖とそれから引く内堀・外堀によって東海道筋の町方と区分され、北・中・南の三大手門で結ばれている。町屋敷は外堀のすぐ西手、東海道筋を中心に置かれるが、東海道は北部・南部ともに数度にわたり曲折する。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by