耶律隆運(読み)やりつりゅううん(その他表記)Ye-lü Long-yun; Yeh-lü Lung-yün

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「耶律隆運」の意味・わかりやすい解説

耶律隆運
やりつりゅううん
Ye-lü Long-yun; Yeh-lü Lung-yün

[生]会同4 (941)
[没]統和29 (1011)
中国,功臣漢人姓名は韓徳譲。徳昌ともいう。諡は文忠。祖父乾知古が太祖に仕え,父韓匡嗣は南西面招討使となった。乾亨1(979)年燕雲十六州回復を企図した宋の太宗南京(現北京)包囲を南京留守として防御。続く高梁河の戦いにも活躍し,南枢密院使を拝命。景宗が崩じると睿知皇后(承天太后)らと聖宗擁立に尽力。承天太后の信頼を得,以後の対宋戦にも承天太后のもとで活躍,宋を屈服させて澶淵の盟約を結び,遼最盛時代の基礎を確立した。北枢密院使,北府宰相を加授され耶律姓を賜わり,権勢をふるった。

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