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りょうLiao

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説


りょう
Liao

契丹族が満州,モンゴル,華北を支配した国家(907/16~1125)で,征服王朝。契丹族は代に数部に分かれ,内モンゴルの潢河(シラムレン川。→シャルモロン〈西拉木倫〉川)流域で遊牧。迭剌(てつら)部長耶律阿保機が契丹を統一,神冊1(916)年帝位につき元号を建てた。耶律阿保機が遼の太祖で,天顕1(926)年に渤海国を討滅し東丹国を建国。次の太宗は東丹国を渤海人とともに遼陽に移し,東丹国はほどなく消滅。太宗は五代後唐の将軍石敬瑭の後晋建国を助け,報酬に燕雲十六州(河北,山西北部)を獲得,大同1(947)年後晋を討滅して,国を遼と号した。第6代聖宗時代に遼は最盛期に達し,高麗をくだしタングート諸部や東トルキスタンのウイグル諸国を朝貢させ,に親征,統和22(1004)年澶淵の盟約といわれる有利な和議を締結して,東アジアの最強国となった。遼は国内の遊牧民族,狩猟民族には部族制,農耕民の漢人や渤海人には郡県制を適用,おのおの北,南の枢密院の最高行政機関に統治させる二元的体制を採用し,軍事は契丹人を長とする北枢密院が掌握した。遼の諸帝は仏教を信仰し寺塔を建て,『大蔵経』を彫印。遼代文化の特色は遼三彩の陶磁器,慶陵発見の絵画,契丹文字碑文に見出される。遼は二元的支配体制の矛盾と仏寺造営などによる財政難から衰え,保大5(1125)年女真族の国に滅ぼされた。

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デジタル大辞泉の解説

りょう〔レウ〕【遼】

契丹(きったん)(キタイ)族が建てた国。916年、耶律阿保機(やりつあぼき)が建国。都は上京臨潢府(じょうけいりんこうふ)。渤海を滅ぼし、燕雲十六州を奪って版図をモンゴリア・中国東北地方・華北に拡大。と抗争したが、1004年、澶淵(せんえん)の盟を結んで和睦。1125年、に滅ぼされたが、一族の耶律大石が中央アジアに逃れて、西遼を建てた。→カラキタイ

りょう【遼】[漢字項目]

人名用漢字] [音]リョウ(レウ)(呉)(漢)
はるか。遠い。「遼遠
契丹(きったん)族が建てた国。「西遼
[名のり]とお・はるか

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百科事典マイペディアの解説

遼【りょう】

東モンゴリアのシラムレン川流域に興った契丹(きったん)が建てた征服王朝。東モンゴリア,東北地区,華北の一部(燕雲十六州)を領有。建国者耶律阿保機(やりつあぼき)(太祖)は契丹諸部族を統合,926年渤海(ぼっかい)を滅ぼして東丹国を建国。2代太宗は中国に進出。6代聖宗の時国力充実し,政治・軍事組織を整え,中央集権制を確立。と争って【せん】淵(せんえん)の盟を結ばせた。続く興宗・道宗時代に極盛期を迎えたが,1125年天祚帝(てんそてい)が女真(じょしん)に敗れて滅亡。一族の耶律大石は中央アジアにのがれて西遼を建てた。遼は広大な領域に契丹人,奚(けい)民族,漢族,渤海遺民など多種が共存し,遊牧社会と農耕社会が併存したため,二元的政治を行い,契丹の国粋化を図り,契丹文字などを作った。しかし中国文化の影響は強く,儒教・仏教が栄え,契丹蔵という《大蔵経》を刊行。美術・工芸・建築にも宋の影響があった。→カラ・キタイ
→関連項目アクダ(阿骨打)慶陵高麗聖宗中華人民共和国農安白塔子耶律楚材

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世界大百科事典 第2版の解説

りょう【遼 Liáo】

契丹(きつたん)(キタイ)族の耶律阿保機(やりつあぼき)が東モンゴリアに建国し,モンゴリアおよび中国東北部と華北の一部を支配した国家または王朝。916‐1125年。中国史における征服王朝のはじめとされる。 契丹族は,その始祖説話に〈白馬に乗った神人と灰牛に駕した天女が夫婦になって8子を生んだ〉とあるように,本来東モンゴリアのシラムレンから遼寧省大凌河流域付近にいた,8部からなる遊牧民族であった。すでに4世紀中ごろには,その存在が認められ北朝時代に中国に朝貢したこともあり,唐代には遼州総管府,松漠(しようばく)都督府管下の羈縻(きび)州に編成されたが,9世紀中ごろに唐が衰退し,北ではウイグル王国も崩壊して東アジアは混乱期に入った。

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大辞林 第三版の解説

りょう【遼】

中国、契丹きつたん族の耶律阿保機やりつあぼきが建てた国(916~1125)。モンゴリア・中国東北部・華北の一部を支配、宋から燕雲十六州を奪い澶淵せんえんの盟を結ぶ。金と宋に挟撃されて滅んだが、王族の耶律大石が中央アジアに逃れて西遼を建国した。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説


りょう

契丹(きったん)の建てた国家の中国式国号(907~1125)。正式には「大遼国」または「大契丹国」という。契丹はモンゴル系の民族集団で、4世紀ころ興安嶺(こうあんれい)東部のシラムレン川流域に遊牧していたが、5世紀には南方に移住し営州(遼寧(りょうねい/リヤオニン)省朝陽(ちょうよう/チャオヤン))に住んだ。しかし、696年唐軍の討伐を受けて移動し、シラムレン川とラオハ(老哈)川との合流点付近に本拠を移した。のちに遼の太祖となった耶律阿保機(やりつあぼき)は迭剌(てつら)部の出身で、成長して迭剌部夷(いりきん)(部長)となり、ついで痕徳菫可汗(こんとくきんかかん)のもとで于越(うえつ)(兵馬総指揮官)となった。そして、それまでの君長互選制による部族連合体を解体し、907年即位し(第一次即位)、大契丹国を建てた。阿保機は幾度か長城を越えて華北に侵入し、多数の漢人を捕らえて領内に移し、城を築いて集団的に居住させ、農耕生産や工芸などに従事させ、遼国建国の経済的基盤を築き、君主権の強化に努め、916年、群臣から中国風に皇帝の尊号を受け、年号を神冊(しんさく)と定めた(第二次即位)。阿保機は924年6月から925年9月に至るまで阻卜(そぼく)(タタール)、党項(タングート)、吐谷渾(とよくこん)を攻め、同年12月、渤海(ぼっかい)国に出兵し、926年同国を滅ぼして東丹(とうたん)国と改名し、皇太子の倍(ばい)を東丹国王に任じて帰国する途中、同年7月死亡した。その後、阿保機の次男の徳光(堯骨(ぎょうこつ))が即位し太宗となった。
 太宗は中国本土の経略に主力を注ぎ、華北の争乱に介入し、936年石敬(せきけいとう)を助けて後唐(こうとう)を滅ぼし、後晋(こうしん)国を建てさせ、約により燕雲(えんうん)十六州を割譲させた。このことにより契丹は中国の農耕民を直接支配することになり、これを契機として契丹の文化、制度、政治などは変容し始めた。太宗は943年、後晋国に出兵したが敗北し、946年にも出兵し後晋国を滅ぼし、947年正月、(べん)州(開封)に入城し、同年2月、国号を大遼国とした。太宗は州にいて中国を支配しようとしたが、契丹人将兵が漢人の財物を略奪誅求(ちゅうきゅう)し、漢人の怨恨(えんこん)を招き民心を失い、中国統治に失敗した。太宗は同年4月、帰国の途中、陣中で没した。第3代世宗および第4代穆宗(ぼくそう)の時代には、一族の間に内乱が相次ぎ、国政は安定せず、穆宗は近侍に殺された。
 第5代景宗の時代には宋(そう)との関係が正常化し、両国間に平穏な関係が続いた。982年、景宗が没し第6代聖宗が12歳で即位した。聖宗は983年女真に出兵し985年定安国を征伐したが、宋ではこの虚に乗じ燕雲十六州の回復を目ざして出兵し敗北した。聖宗は1004年宋に出兵し、宋の真宗も(せん)州に親征したが、宋は遼に毎年絹20万匹、銀10万両を贈るなどの条件で両国間に和議が結ばれ((せんえん)の盟)平和が回復された。淵の盟約後、宋は雄州などに(かく)場(交易場)を置き、遼も新城、易(えき)州、朔(さく)州に場を設け、宋と交易した。宋から遼へは茶、(そうはく)(絹織物)、香薬などが輸出され、遼から宋へは馬、羊、毛皮、珠玉などが輸出された。政府監督下の場交易のほかに密貿易も行われ、また淵の盟約後、毎年莫大(ばくだい)な歳幣が宋から遼に送られた。こうして遼では淵の盟約を転機として経済上、社会上目覚ましい発展を遂げ、聖宗、興宗、道宗3代100年間にわたり黄金時代を現出した。道宗の孫第9代天祚(てんそ)帝の時代から遼の国力は衰え、1114年以後女真族の金に攻められ、1125年天祚帝は女真に捕らえられ、遼は滅亡した。しかし遼の太祖8世の孫の耶律大石(やりつたいせき)は、一族とともに西方に逃れ、中央アジアの虎思斡耳朶(フスオルド)(ベラサグンともよばれ現在のトクマク付近)に本拠を置き、西遼(せいりょう)国を建てた。西遼国はカラ・キタイ(黒契丹)ともよばれる。[河内良弘]

官制

遼の官制は時代とともに変遷があるが、太宗時代、華北に勢力が伸張するにつれ、契丹人や諸遊牧民の統治には従来からの固有の制度(北面制)が用いられ、漢人や渤海人、高麗(こうらい)人などの定着農耕民の統治には中国的な制度(南面制)が採用された。北面制の最高行政機関は北枢密院(すうみついん)で、契丹人の軍政・民政および農耕民の軍政を統領した。北枢密院の管下には北・南宰相府(部族行政)、北・南宣徽(せんき)院(造営)、大于越(うえつ)府、夷離畢(いりひつ)院(刑獄)、大林牙(だいりんが)院(文書)、敵烈麻都司(てきれつまとし)(儀式)などの役所があった。契丹の皇族あるいは準皇族として待遇された貴族は、帳族とよばれ、遙輦(ようれん)九帳、皇族帳、国舅(こくきゅう)帳、国舅別部の四大帳族があり、それぞれ部族を領有した。部族には大部族(五院部、六院部、乙室部、奚(けい)六部)と小部族(品部以下48部)があり、大部族を統轄する官庁として北・南大王院、乙室大王府、奚王(けいおう)府があり、小部族には部族司徒府、部族節度使司、部族詳穏(しょうおん)司が置かれた。南面制の最高行政機関は南枢密院で、唐の制度に倣った三省六部の役所が置かれ、農耕民の民政を統領した。農耕定着民に対する地方行政機関としては中国のそれとまったく同じ州県制が施行された。契丹は中国への出兵の際略奪した農耕民を集団的に領内に移し、農民の原住地の名をとって何州、何県と名づけた。これらの州県は頭下州あるいは頭下軍とよばれた。また皇帝直轄の州県を斡魯朶(オルド)(宮衛)の州県、皇帝の陵墓に奉仕する州県を奉陵邑(ほうりょうゆう)とよんだ。[河内良弘]

社会・文化

遼代の契丹はすべて耶律(やりつ)(移剌(いら))と審密(しんみつ)(石抹(せきまつ)、蕭(しょう))の2姓に分かたれていた。耶律姓と審密姓とは族外婚の単位(フラトリー)であり、耶律は馬をトーテムとし、審密(石抹、蕭)は牛をトーテムとする血縁集団で、かつ相互に族外婚の単位をなしていた。契丹の民族固有の信仰はシャーマニズムで、氏族的儀礼や人々の疾病の際に果たすシャーマンの役割は大きかった。しかし建国後は仏教や道教も取り入れられ、中国僧が招かれ、各地に仏寺や仏塔が建てられた。仏教関係の建築物では(せんちく)の仏塔が代表的で、遼寧省義県の嘉福寺の多角多簷(たえん)塔、巴林左旗の林東市の南塔、巴林左旗の白塔子の白塔が有名である。木造建築では山西(さんせい/シャンシー)省応県の仏宮寺の木塔のほか、仏教関係の建物が多く遺存している。契丹はまた民族的自覚の高揚に伴い、契丹文字といわれる独自の文字を創製した。これは西夏、女真などに影響を及ぼし、各民族が独自の文字を創製する先駆けとなった。契丹は美術、工芸の面でも格調の高い文物を後世に伝えている。絵画では慶陵(けいりょう)の壁画にみられる山水画、人物画は、唐代の手法によりつつも契丹地方の風景を画題とした優れた作品であり、陶磁器では長壺、提袋壺、遼三彩、白磁など、独得の趣向を備えた逸品が多い。[河内良弘]
『田村実造著『中国征服王朝の研究』(上 1964・東洋史研究会、下 1985・同朋舎出版) ▽島田正郎著『遼代社会史研究』(1952・三和書房) ▽島田正郎著『遼制之研究』(1954・中沢印刷)』

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世界大百科事典内のの言及

【澶淵の盟】より

…中国で1004年(宋の景徳1∥遼の統和22)宋と遼の間に結ばれた和平条約。五代から宋初,河北に領域を広げる遼と,失地回復を目ざす漢民族王朝の間に攻防がくりかえされた。…

※「遼」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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