燕雲十六州(読み)えんうんじゅうろくしゅう

精選版 日本国語大辞典 「燕雲十六州」の意味・読み・例文・類語

えんうん‐じゅうろくしゅう ‥ジフロクシウ【燕雲十六州】

中国五代の晉(後晉)の石敬瑭(せきけいとう)が九三七年、契丹(きったん)(=遼)に割譲した幽、薊(けい)、涿(たく)、檀、順、瀛(えい)、莫、新、嬀(ぎ)、儒、武、蔚(うつ)、雲、寰(かん)、応、朔の各州の総称。現在の河北および山西地方北部に当たるこの地が遼に与えた利益は大きく、五代や宋の諸君主は、その回復に苦心した。

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デジタル大辞泉 「燕雲十六州」の意味・読み・例文・類語

えんうん‐じゅうろくしゅう〔‐ジフロクシウ〕【燕雲十六州】

中国、五代の後晋こうしんを建国した石敬瑭せきけいとうが、936年、契丹きったん族のに割譲した華北平野の16州。幽(燕とも。北京)・けい涿たくたん・順・えい・莫・新・・儒・武・うつ・雲(大同)・かん・応・さくの各州。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「燕雲十六州」の意味・わかりやすい解説

燕雲十六州
えんうんじゅうろくしゅう

中国、後晋(こうしん)(936~946)の高祖石敬瑭(せきけいとう)が遼(りょう)に割譲した華北の16州をいう。河北省内にある幽(ゆう)(北京(ペキン))、薊(けい)(薊県)、瀛(えい)(河間県)、莫(ばく)(任邱(じんきゅう)県)、涿(たく)(涿県)、檀(だん)(密雲県)、順(順義県)、嬀(ぎ)(懐来県)、儒(延慶県)、新(涿鹿(たくろく)県)、武(張家口市)、蔚(うつ)(蔚県)と、山西省の雲(うん)(大同県)、応(おう)(山陰県)、朔(さく)(朔県)、寰(かん)(朔県東北馬邑付近)の16州である。燕雲とは宋(そう)の徽宗(きそう)時代からの呼称で、それまでは燕代、幽薊(ゆうけい)、幽燕などとよばれた。933年後唐(こうとう)(923~936)の明宗の養子李従珂(りじゅうか)が後唐を奪うと、明宗の女婿石敬瑭は太原で挙兵し、雁門関(がんもんかん)以北諸州を割譲することを条件に遼の太宗に援助を求めた。遼は936年、軍を送って後唐を滅ぼし、石敬瑭に後晋(こうしん)を建てさせたので、石敬瑭は遼に臣礼をとり、同年11月燕雲十六州を遼に譲った。遼は幽州を南京とし、雲州西京とし、中国人士大夫を官吏に任用し、治安の維持に努めた。

 中国では長城をもって華夷両世界を分かつ境界と考え、長城以南は中華の地としていたから、機会あるごとに失地を奪回しようとした。後周(こうしゅう)の世宗は959年、瀛州、莫州を奪回した。宋でも失地回復を国是とし、太宗は北伐軍をおこしたが効果はなかった。1115年、金が建国すると、宋の徽宗(きそう)は金の勢力を用いて失地を回復しようと金と交渉し、宋が燕京(北京)を攻略しかつ宋がこれまで遼に与えていた銀と帛(はく)を金に与えることを条件に、失地を譲り受けることとした。しかし金は自力で燕京を占領したので条件が変わり、1123年、宋は歳幣や銭米を金に与えるかわりに燕京と薊、景、檀、順、涿、易の6州を譲り受けた。しかし金は、宋が歳幣を送らず約に背いたとして、1125年華北に出兵して燕京を占領し、翌年宋都開封(かいほう)を占領したので、燕雲の諸州を含む華北平野は金の領土となった。

[河内良弘]


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山川 世界史小辞典 改訂新版 「燕雲十六州」の解説

燕雲十六州(えんうんじゅうろくしゅう)
Yanyun

燕薊(えんけい)十六州ともいう。五代後晋石敬瑭(せきけいとう)が,936年契丹(きったん)()に割譲した長城線以南の河北,山西の一部。遼はこの地に進出して政治,軍事,経済に多大の利を占めて五代,宋の中原と対峙したので,その回復は後周の世宗,宋の太祖太宗以降,漢民族の宿願となっていたが果たせなかった。北宋末の宋・同盟による遼の挟撃によって一時実現したが,今度は金の領有に帰した。

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百科事典マイペディア 「燕雲十六州」の意味・わかりやすい解説

燕雲十六州【えんうんじゅうろくしゅう】

中国北部の地方の歴史的呼称。燕は北京,雲は大同をさす。この2州を含む16州を,936年五代の後晋()が建国するに当たって契丹(きったん)に割譲。これより宋代にわたり,契丹(遼)が領有,その地の中国人を支配した。
→関連項目高祖(後晋)

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旺文社世界史事典 三訂版 「燕雲十六州」の解説

燕雲十六州
えんうんじゅうろくしゅう

五代後晋 (こうしん) の建国者石敬瑭 (せきけいとう) が,建国援助の代償として契丹に割譲した土地
燕(北京)・雲(大同)を中心とした河北,山西の北部諸州をいう。その後,この地域は契丹の中国侵入の拠点となった。五代の後周 (こうしゆう) はこの回復をめざしたが成功せず,宋の太宗も奪還しようとして契丹(遼)の名将耶律休哥 (やりつきゆうか) のために撃退された。北宋末期に徽宗 (きそう) は新興の金と同盟して遼を攻め,燕雲諸州の一部を得たが,宋の弱体ぶりをみた金はこれを奪ってしまった。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「燕雲十六州」の意味・わかりやすい解説

燕雲十六州
えんうんじゅうろくしゅう
Yan-yun shi-liu-zhou; Yen-yün shih-liu-chou

中国の北京 (幽州) および大同 (雲州) を中心とした 16州の地域。 936年五代の後晋が契丹 (遼) に割譲して以来,北宋末まで契丹が領有し,中国に対する圧力の策源地となった。

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世界大百科事典(旧版)内の燕雲十六州の言及

【河北[省]】より

…唐の中期には中央に対して反乱を起こした安禄山,史思明の根拠地となった。唐末から五代にかけては北方の契丹民族が発展して遼国を立て,後晋の建国を援助した代償として本省の万里の長城以南の地を譲り受け(山西省の大同を中心とした地域と合わせて燕雲十六州という),今の北京を南京(のち燕京といった)と称して副都とした。したがって,宋では本省の南半部を領有していたわけで,これを河北路といっていたが,やがて契丹の北方から女真族が起こって金国を立て,12世紀の初めには宋の勢力を完全に華北から駆逐した。…

【高祖】より

…その際,代償として契丹に莫大な歳幣を約し,契丹国王を父と呼んで臣事した。またこのときの長城以南の地である燕雲十六州割譲は長く係争の地となった。【愛宕 元】。…

【五代十国】より

…王朝名が示すように唐の正統的後継者をもって任じた。後晋は突厥沙陀(しやだ)系の石敬瑭(高祖)がたてた王朝であるが,建国時に契丹の軍事援助を受け,その代償に長城以南の燕雲十六州(河北・山西北部)を契丹に割譲した。この地は宋の統一後も係争の地となる。…

【太宗】より

…まず国内統一事業では,残っていた呉越(浙江省)と漳・泉2州(福建省)を併合し,北漢(山西省)を親征して征服し,ほぼ中国の統一を成し遂げた。その余勢をかって,五代後晋のとき契丹に割譲した,いわゆる燕雲十六州の奪回をはかったが,これは成功せず,かえって契丹の侵寇に悩まされた。内政でも,太祖が始めた君主独裁による中央集権化の政策を受け継ぎ,それをさらに徹底した。…

【北京】より

…8世紀には安禄山や史思明がここを根拠として唐朝に反乱を起こし,唐末には軍閥の劉仁恭父子が独立して燕国を建てた。
[元朝の都大都]
 五代になると後晋の石敬瑭(せきけいとう)が建国に際し,遼国(契丹)の援助を受けた返礼として,燕(幽)雲十六州(今日の北京市と大同市を含む河北・山西両省の北部)を遼国に譲渡した。遼では幽州を南京(五京の一つ)または燕京析津(せきしん)府と名づけ,薊県を析津・宛平(えんぺい)の2県に分けたので,1000年余りも続いた薊県の名はついになくなったのである。…

【遼】より

…太祖阿保機は,即位後も征略をすすめ,924年(天賛3)には西方の吐谷渾(とよくこん),タングート(党項),阻卜(そぼく)などに遠征して遊牧圏を制圧し,翌年には東方の渤海国を滅ぼし,この地に東丹国を建て長子の耶律倍をその王とした。 太宗は太祖の遺志を継ぎ,北方諸部を経略してからはもっぱら南方華北に侵入して,石敬瑭(せきけいとう)の晋(後晋)建国を助け,その代償として938年(会同1)に華北の燕雲十六州を手に入れた。946年には晋を滅ぼし,翌年(大同1)には国号を大遼とたて汴京(べんけい)(開封)に入城したが,中原支配にはいたらなかった。…

※「燕雲十六州」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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