一般には漢族のこと。元初においては旧金朝治下の人々の総称であり,契丹(きったん)人,女真(じょしん)人,渤海(ぼっかい)人,高麗(こうらい)人および淮河(わいが)以北の中国人などが該当する。従来,元朝治下の身分制度としてモンゴル人,色目(しきもく)人,漢人,南人(旧南宋治下の人々)という4階級が厳として存在してきたとされるが,再検討を要する。つまり人種や宗教などの枠をこえて,個々の人間の実力主義の状況が生まれていた。また清代では満人との対比で用いられることがある。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…〈いまき〉は新参の意で今来とも書く。古代に中国系と称して渡来した人々は一般に漢人(あやひと)と呼ばれたが,そのほとんどが朝鮮半島に居住していたものだった。その中で5世紀後半のころまでのものはおもに漢・魏を源流とする古い楽浪文化を伝え,大陸の学芸・技術をもって朝廷に仕える各種の専門職の小氏となり,その多くは雄略朝のころに東漢(やまとのあや)氏を伴造(とものみやつこ)とする一つの指揮系統の下に組織化された。…
… 《日本書紀》《新撰姓氏録》さらに《続日本紀》の坂上苅田麻呂の上表文などによると,応神天皇のとき,後漢霊帝の3世孫阿知使主(あちのおみ)が〈党類十七県〉をひきい来日し,さらに子の都加使主(つかのおみ)を呉に遣わし,工女兄媛,弟媛,呉織,穴織の4婦女を連れてかえったというが,これは雄略天皇のとき倭漢氏の一族が呉に使し,〈手末才伎(たなすえのてひと)〉の衣縫兄媛,弟媛,漢織,呉織を連れかえったとする説話と共通する。また阿知使主が,彼の旧居(帯方郡の故地,高句麗と百済の間)には才芸に巧みなものが多いので迎えたいと申請し,村落をあげ連れかえったのが〈漢人(あやひと)〉であるとの説話がある。これも雄略天皇のときとする次の話と同工異曲である。…
…漢民族と一般に通称されている民族とはいったいどんなものなのであろうか。彼らが漢族とも漢人とも呼ばれていることは周知のことである。かつて李済は《漢民族の形成》という著書を著しているが,まさに漢民族と汎称される民族の構成はきわめて煩雑であり,その言葉の持つ意味のとらえ方も多様である。…
※「漢人」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
〘 名詞 〙 年の暮れに、その年の仕事を終えること。また、その日。《 季語・冬 》[初出の実例]「けふは大晦日(つごもり)一年中の仕事納(オサ)め」(出典:浄瑠璃・新版歌祭文(お染久松)(1780)油...
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