中国,唐朝の第2代皇帝。李世民。諡号(しごう)は文皇帝。在位626-649年。初代皇帝李淵の第2子。母は竇(とう)氏。隋末動乱のさなか太原方面の防衛を命ぜられた父に従って同地におもむき,李淵の側近,部下らとともに父をうながして挙兵に踏み切らせた。李世民は兄の李建成とそれぞれ1軍を率い,汾水をさかのぼって長安を占領した。李淵の唐朝建設はこの2子の軍事的な働きに負うところが大きいが,とくに李世民の功業は絶大である。山西の劉武周,河西の李軌などの群雄を平定して長安政権の基礎を固めたばかりでなく,東方の強敵王世充と竇建徳を一挙に滅ぼして,唐朝の地歩をゆるぎないものとした。唐朝はこれらの功業に報いるため天策上将という,臣下として最高の地位を与えた。その軍功と地位は当然にも皇太子たる李建成との確執を生んだ。李建成は三弟李元吉と結んで李世民の殺害を謀ったので,李世民は機先を制して宮中玄武門で李建成・李元吉を殺した(玄武門の変)。この事件によって李世民は皇太子に冊立され,ついで李淵が譲位したので,第2代皇帝に即位,年号を貞観(じようがん)と称した。太原挙兵から玄武門の変に至るまでの李世民の行動について,史書はこれを美化しすぎているという指摘がしばしばなされるが,その才能と業績が唐朝樹立に大きく寄与したことは否定できない。
李世民は包容力をもつと同時に合理的な考え方の持主であった。また天成の戦術家であり,一面では洗練された文化の愛好者であった。彼のこのような性格は,六朝貴族制社会が質的変化をとげて,統一政治に向かおうとする時代の産物であろう。李氏が新興武人貴族の家柄であることは,この時代精神を体現するのにふさわしい環境であった。李世民の作戦の特徴は,彼我の力関係をしっかりと見定め,それが自己の有利になって初めて行動を起こす点にあった。いったん行動を起こすと完全な勝利に至るまで戦いをやめなかった。勝利が定まると旧敵に対してもこれを包容し,才能を発揮させるのにやぶさかでなかった。こうして一勝するごとに幕下にすぐれた人材が集まった。即位後の政治に参画して,かの〈貞観の治〉を現出したのは,それらの人々の努力であった。李世民は彼らの諫言をよく受けいれ,隋の失政を教訓として善政にはげみ,房玄齢,杜如晦のような名相,李靖,李勣(りせき)のような良将,あるいは魏徴のような諫臣等々がこれを輔佐した。李世民はこれらの功臣の肖像を凌煙閣にかかせ,その功績を顕彰した。学問,文学を愛する彼の幕下には,孔穎達(くようだつ),顔師古,褚遂良,虞世南らの学者,文人が雲集し,唐初の文化建設に寄与した。また王羲之の書を熱愛し,みずから六書をよくした。
唐朝の基礎が真に確立したのは2代目の李世民のときであり,それには突厥(とつくつ)の帰順と征服があずかって力があった。従来突厥の支配下にあった北方諸民族は彼をたたえて,天可汗の称号をたてまつった。諸民族の首長は現地の都督,刺史,県令に任命され,いわゆる羈縻(きび)州体制が生まれた。唐は中国とその周辺を含む一大世界帝国となった。しかし636年(貞観10)ころから李世民の政治もようやく弛緩を見せ始める。心ある臣下の諫止を押し切って強行された高句麗親征は,むざんな失敗に終わった。晩年の李世民にとって最大の問題は後継者の問題であった。皇太子李承乾は乱行のため誅され,さまざまの迷いの末,後継者に選んだのは,凡庸で従順な李治(高宗)であった。李世民は深宮育ちの李治に帝王たるの心得を授けて,後顧の憂いを絶とうと努力したが,その不安はつねに念頭から去らなかったようである。対高句麗戦で敗退するころから李世民は健康を損ないがちであった。その原因の一つには,丹薬の常飲が挙げられる。彼と皇后長孫氏を合葬した昭陵(陝西省礼泉県)は九嵕(きゆうそう)山を利用したもので,山腹,山麓の広大な地域には魏徴,李勣ら臣下たちの陪冢が散在している。
→羈縻政策
執筆者:谷川 道雄
中国,宋朝第2代皇帝。初名は趙匡義,のち太祖の名を避けて光義とし,皇帝になって炅(けい)と改めた。趙弘殷の第3子,太祖の実弟である。976年,太祖が急死すると,太祖の諸子をさしおいて彼が即位した。そのことが後世にさまざまな疑いをもたれ,彼が殺したのではないかとさえ憶測された。内外政策では,基本的には太祖の方針を継承しつつ,さらにいっそう徹底して,彼によって宋朝の基礎が固められた。まず国内統一事業では,残っていた呉越(浙江省)と漳・泉2州(福建省)を併合し,北漢(山西省)を親征して征服し,ほぼ中国の統一を成し遂げた。その余勢をかって,五代後晋のとき契丹に割譲した,いわゆる燕雲十六州の奪回をはかったが,これは成功せず,かえって契丹の侵寇に悩まされた。内政でも,太祖が始めた君主独裁による中央集権化の政策を受け継ぎ,それをさらに徹底した。たとえば,太祖のときには認められていた,辺境を守る節度使の諸特権をすべて取り上げて,内地同様に中央統制を強化した。また科挙制度を拡充して,及第者の数を一挙に数倍にふやし,大量の知識人を官僚に登用する道を開いた。一方では,《太平御覧》などの大部な書物の編纂事業をはじめ,新王朝に批判的な知識人の懐柔をはかった。彼は,酒を好み武人気質の太祖とは異なり,酒は飲めず,遊興を避けて政務にはげみ,余暇には読書を楽しみ書をたしなむ文化人であった。
執筆者:竺沙 雅章
朝鮮,李朝第3代の王。在位1400-18年。本名は李芳遠。太祖李成桂の第5子。太祖の開国を補佐し,異母弟2人と鄭道伝を殺して王室の内紛に勝ち即位した。王権の強化に努め,私兵を廃止して兵権の一元化をはかり,官制を整備して議政府や司諫院を設け,《経済六典》(高麗末からの条例をまとめたもの)を印刷頒布した。号牌法(軍役,徭役の基準として16歳以上の男子が牌をもつことを義務づける法)を実施して人民支配を強化する一方,申聞鼓(王宮の鼓をたたいて民衆が直接王に上言する制度)を設置して直訴を許した。また鋳字所を設けて銅活字を鋳造し,《大学衍義》などを印刷出版した。この時代,日本や琉球との交渉が開けたが,慶源の撤収など東北辺は消極策に終始した。世宗に譲位後も上王となって政治・軍事を掌握した。
執筆者:吉田 光男
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中国、宋(そう)の第2代皇帝(在位976~997)。初名は趙匡義(ちょうきょうぎ)、のち太祖の諱(いみな)匡胤(きょういん)を避けて光義となり、即位すると炅(けい)に改めた。趙弘殷(こういん)の第3子。太祖の実弟であるが、976年太祖の急死を受けて即位したので、後世、この継承問題はさまざまな疑惑をよんだ。太祖の統一事業を受け継ぎ、呉越(ごえつ)を併合し北漢(ほくかん)を征服してほぼ統一を完成、余勢を駆って、いわゆる燕雲(えんうん)十六州の奪回を試みたが敗北した。内政では、科挙制度を拡充して大量の知識人を官僚に登用して文治主義を徹底し、また、太祖のときには認められていた辺境の節度使に与えた特権も取り上げて、中央集権化をさらに進めた。『太平御覧』などの大部な書物の編纂(へんさん)事業を始めたことも、太祖時代とは異なる政策である。
[竺沙雅章]
『竺沙雅章著『宋の太祖と太宗』(1975・清水書院)』
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…彼は,突厥(とつくつ),タングート,ウイグルなどの西方諸部族を再度征服して,外モンゴルから東トルキスタンまでを制圧した。つぎに,東方に兵を動かして,中国東北地方東半を領有していた渤海(ぼつかい)国を滅ぼし,その故地を手中におさめて東丹国をたて,皇太子耶律倍にこの国の経営をゆだね,本国への凱旋の途中,扶余府(吉林省農安県)で病没し,その事業は次男徳光(太宗)によって継承されることとなる。 阿保機は,自国内に移した中国人のために,州・県を設置し,中国人に,その故郷におけると同様の生活を営ませた。…
…ベトナムのチャン(陳)朝の太宗。在位1225‐58年。…
…タンロンは以後,長くベトナムの首邑となった。リ朝は2代タイトンThai Tong(太宗。在位1028‐54),3代タイントンThanh Tong(聖宗。…
…在位1229‐41年。廟号は太宗。オゴデイ・ハーンともいう。…
…在位1626‐43年。廟号は太宗。太祖(ヌルハチ)の第8子。…
※「太宗」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
〘 名詞 〙 年の暮れに、その年の仕事を終えること。また、その日。《 季語・冬 》[初出の実例]「けふは大晦日(つごもり)一年中の仕事納(オサ)め」(出典:浄瑠璃・新版歌祭文(お染久松)(1780)油...
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