若山庄(読み)わかやまのしよう

日本歴史地名大系 「若山庄」の解説

若山庄
わかやまのしよう

現珠洲市域のうち内浦側のただ飯田いいだ上戸うえど宝立ほうりゆうの各地区、西部内陸の若山地区、外浦の西海さいかい地区(馬緤・大谷)、および現内浦町・能都のと町東部などを含む一帯に比定される。本家を九条家、領家を日野家とする支配が続き、鎌倉期初頭には公田数五〇〇町の能登最大の庄園となる(承久三年九月六日能登国田数注文)。旧珠洲郡域の大半を占め、若山川上・中流域の若山郷、同下流域の飯田郷、鵜飼うかい川流域の直郷、松波まつなみ川・九里川尻くりかわしり川流域の木郎もくろう郷と西海浦の四郷一浦からなる。康治二年(一一四三)一〇月四日の源季兼寄進状(九条家文書、以下断りのない限り同文書)に「能登国管珠珠院内若山庄」とみえ、父源俊兼より伝領の当庄を皇太后藤原聖子(藤原忠通女、のちの皇嘉門院)に寄進している。俊兼は寛治七年(一〇九三)から康和三年(一一〇一)まで能登守にあり、任期終了間際に当地を得たと考えられ、これを譲り受けた季兼は預職(領家職)を保留し、当時仕えていた聖子に寄進した。寄進状の記す四至は「南限珠珠正院真脇村 北限同院八条袋 西限町野院境山 東限海」で、「八条袋」は現珠洲市正院しよういん飯塚いいづか付近のハッチョウノウテに比定されていたが、三方位との整合性から現同市東山中ひがしやまなか町の小字ハッチョウを遺称地とする説が有力である(内浦町史)。鎌倉初頭までには西海浦を庄域に取込んだ(建暦二年二月八幡寺大般若経奥書)

長寛二年(一一六四)忠通没後、当庄などの皇嘉門院領は子兼実が管轄しており、仁安二年(一一六七)には三〇町分を年貢免除としている(「玉葉」同年六月二二日条)。治承四年(一一八〇)五月一一日に皇嘉門院は当庄などを兼実の子で女院の養子である良通に譲り、兼実存命中は引続き兼実の管轄と定めた(「皇嘉門院惣処分状」天理図書館蔵九条家文書)。治承四年以降の内乱により当庄も牢籠したため、寿永二年(一一八三)兼実の要請により当庄の知行回復を能登国衙が命じられている(同年一〇月一九日官宣旨)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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