藤原忠通の女,母は藤原宗通の女宗子。名は聖子(せいし)。1128年(大治3)従三位に叙され,翌年崇徳天皇の女御として入内,30年中宮となる。崇徳の譲位した41年(永治1)皇太后となり,近衛天皇の准母となった。50年(久安6)院号宣下。保元の乱で崇徳が配流されると,出家して清浄恵といったが,63年(長寛1)再度出家し蓮覚と称した。
保元の乱後,忠通は妻宗子を通して得た所領を,宗子の持仏堂最勝金剛院領とし,父忠実から譲られた家領の一部とともに聖子に譲与した。聖子はこの荘園群の一部を,いったん松殿藤原基房に譲ろうとするが,結局それを撤回し,1180年(治承4)所領の大半を養子九条良通に譲ることを条件として,良通の実父兼実に処分した。山城曾束荘,近江寄人,伊賀大内西・東荘,浅宇田荘,音羽荘,伊豆三津御厨,井田荘,周防屋代荘,備後坪生荘,豊後臼杵・戸次荘,肥前大田荘等の最勝金剛院領に,九条の堂・家・地・倉,山城久世荘,和泉大泉荘,摂津倉垣荘外2荘,尾張杜荘,三河吉良荘,武蔵船木田本・新荘,稲毛本・新荘,下総三崎荘,常陸小鶴北・南荘,美濃衣斐荘外2荘,若狭立石本・新荘,能登若山荘,越後白河荘,丹波賀舎荘外1荘,但馬田道荘外1荘,出雲林木荘,石見大宅荘,紀伊下野荘,阿波河輪田荘,豊後津守荘,肥前与賀荘,和泉・摂津・近江の大番舎人などをあわせた荘園群がそれである。聖子は同じ日に弟兼房に石見益田荘など2ヵ所,弟信円にも越前今泉荘など3ヵ所を譲与,翌年,後白河法皇に申し出て,この処分の保証を得たのち,まもなく死んでいる。良通に譲られた荘園群は,良通が父兼実に先立って死亡したため,兼実は1204年(元久1)新たに得た所領とあわせて,その大部分を宜秋門院(ぎしゆうもんいん)に処分するが,九条家領はこの荘園群を基本として形成された。
執筆者:網野 善彦
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(今村みゑ子)
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