皇嘉門院(読み)コウカモンイン

デジタル大辞泉 「皇嘉門院」の意味・読み・例文・類語

こうか‐もんいん〔クワウカモンヰン〕【皇嘉門院】

[1121~1182]崇徳天皇中宮。名は聖子せいし。父は関白藤原忠通久安6年(1150)院号宣下。保元の乱後、出家した。

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精選版 日本国語大辞典 「皇嘉門院」の意味・読み・例文・類語

こうか‐もんいんクヮウカモンヰン【皇嘉門院】

  1. 崇徳天皇皇后。藤原忠通の長女。名は聖子。久安六年(一一五〇)院号宣下をうける。保元の乱で崇徳上皇讚岐へ移され、出家。法名を清浄恵と称す。のちに蓮覚と改めた。保安三~養和元年一一二二‐八一

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改訂新版 世界大百科事典 「皇嘉門院」の意味・わかりやすい解説

皇嘉門院 (こうかもんいん)
生没年:1121-81(保安2-養和1)

藤原忠通の女,母は藤原宗通の女宗子。名は聖子(せいし)。1128年(大治3)従三位に叙され,翌年崇徳天皇の女御として入内,30年中宮となる。崇徳の譲位した41年(永治1)皇太后となり,近衛天皇准母となった。50年(久安6)院号宣下。保元の乱で崇徳が配流されると,出家して清浄恵といったが,63年(長寛1)再度出家し蓮覚と称した。

保元の乱後,忠通は妻宗子を通して得た所領を,宗子の持仏堂最勝金剛院領とし,父忠実から譲られた家領の一部とともに聖子に譲与した。聖子はこの荘園群の一部を,いったん松殿藤原基房に譲ろうとするが,結局それを撤回し,1180年(治承4)所領の大半を養子九条良通に譲ることを条件として,良通の実父兼実に処分した。山城曾束荘,近江寄人,伊賀大内西・東荘,浅宇田荘,音羽荘,伊豆三津御厨,井田荘,周防屋代荘,備後坪生荘,豊後臼杵・戸次荘,肥前大田荘等の最勝金剛院領に,九条の堂・家・地・倉,山城久世荘,和泉大泉荘,摂津倉垣荘外2荘,尾張杜荘,三河吉良荘,武蔵船木田本・新荘,稲毛本・新荘,下総三崎荘,常陸小鶴北・南荘,美濃衣斐荘外2荘,若狭立石本・新荘,能登若山荘,越後白河荘,丹波賀舎荘外1荘,但馬田道荘外1荘,出雲林木荘,石見大宅荘,紀伊下野荘,阿波河輪田荘,豊後津守荘,肥前与賀荘,和泉・摂津・近江の大番舎人などをあわせた荘園群がそれである。聖子は同じ日に弟兼房に石見益田荘など2ヵ所,弟信円にも越前今泉荘など3ヵ所を譲与,翌年,後白河法皇に申し出て,この処分の保証を得たのち,まもなく死んでいる。良通に譲られた荘園群は,良通が父兼実に先立って死亡したため,兼実は1204年(元久1)新たに得た所領とあわせて,その大部分を宜秋門院(ぎしゆうもんいん)に処分するが,九条家領はこの荘園群を基本として形成された。
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百科事典マイペディア 「皇嘉門院」の意味・わかりやすい解説

皇嘉門院【こうかもんいん】

崇徳(すとく)天皇の皇后。諱(いみな)は聖子(せいし)。父は藤原忠通,母は宗子。1129年入内して崇徳天皇の女御となり,1130年中宮(皇后)となる。1141年近衛天皇の即位とともに皇太后となり,同天皇の准母となる。1150年院号が宣下された。保元の乱で崇徳が讃岐に配流されると,剃髪して清浄恵と称したが,1163年法名を蓮覚と改めた。保元の乱後,父忠通から聖子に譲られた最勝金剛(さいしょうこんごう)院(現京都市東山区)領を含む所領は皇嘉門院領と称され,1180年聖子はその所領の大半を養子九条良通に譲ることを条件に,良通の父兼実に処分した。聖子は同時に弟兼房に石見益田荘など2ヵ所,弟信円にも越前今泉荘など3ヵ所を譲渡した。良通に譲られた荘園群を中心として,のちに九条家領が形成された。
→関連項目吉良荘船木田荘若山荘

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朝日日本歴史人物事典 「皇嘉門院」の解説

皇嘉門院

没年:養和1.12.5(1182.1.11)
生年:保安3(1122)
平安末期の崇徳天皇の中宮,名は聖子。父は関白藤原忠通,母は権大納言藤原宗通の娘宗子。大治3(1128)年従三位,4年入内,5年中宮となる。保延5(1139)年鳥羽上皇の皇子(近衛天皇)を猶子とし,忠通がその外祖父となる。永治1(1141)年崇徳天皇の譲位,近衛天皇の即位にともない皇太后となり,久安6(1150)年院号を宣下される。保元1(1156)年,保元の乱により崇徳上皇が讃岐に流されたため出家,法名清浄恵。長寛1(1163)年剃髪。弟九条兼実の長子良通を猶子とし,父から譲られた皇嘉門院領の経営と譲渡を図り,治承4(1180)年に譲状を作成,最勝金剛院領など,所領の大半を良通に譲る。

(今村みゑ子)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「皇嘉門院」の解説

皇嘉門院 こうかもんいん

1121-1182* 平安時代後期,崇徳(すとく)天皇の中宮(ちゅうぐう)。
保安(ほうあん)2年生まれ。藤原忠通(ただみち)の娘。大治(だいじ)5年(1130)中宮,永治(えいじ)元年(1141)崇徳天皇譲位,近衛(このえ)天皇即位で皇太后となる。久安6年(1150)院号をゆるされる。保元(ほうげん)の乱で崇徳上皇が讃岐(さぬき)(香川県)に流されると出家し,清浄恵のち蓮覚と称した。養和元年12月4日死去。61歳。名は聖子。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「皇嘉門院」の意味・わかりやすい解説

皇嘉門院
こうかもんいん

[生]保安2(1121).京都
[没]養和1(1181).12.4. 京都
崇徳天皇の中宮。名は聖子。太政大臣藤原忠通の娘。母は大納言藤原宗通の娘宗子。大治4 (1129) 年入内,女御を経て翌年 10歳で中宮となり,天皇の譲位とともに皇太后となり准母となった。久安6 (50) 年院号宣下。陵墓は京都市伏見区深草本寺山町の月輪南陵。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「皇嘉門院」の意味・わかりやすい解説

皇嘉門院
こうかもんいん

藤原聖子

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