菊万荘(読み)きくまのしょう

改訂新版 世界大百科事典 「菊万荘」の意味・わかりやすい解説

菊万荘 (きくまのしょう)

伊予国野間郡の荘園。現愛媛県今治市の旧菊間町のうち。賀茂別雷(かもわけいかずち)神社領。鎌倉時代末のものと推定される伊予国内宮役夫工米未済所々注文に〈菊万庄百三十町〉と規模を記す(《輯古帖》所収御裳濯川和歌集紙背文書)。立荘時期・成立事情とも不詳。《神主代々正禰宜祝等社恩事》なる記録に,神主賀茂成重のとき(1136-45年在任),弟の正禰宜重継が社恩として当荘(領家職か)を与えられたとあり,それ以前からの社領。1184年(元暦1)源頼朝が武士らの濫妨停止を命じた賀茂社領42ヵ所中に荘名が見える。これより先,神主保久の娘で鳥羽院に仕えた上総が,院により別納として当荘預所職をあてがわれ,以来13世紀末ごろまでは,上総同様に院に出仕した賀茂氏出身の女性がほぼこれを継承した(座田文書)。1440年(永享12)神主富久は,公用銭20貫文上納の条件で,当荘所務職を伊予守護河野氏の一族得居宮内大輔通敦に預けており,そのころ以後,ほぼ当荘は得居氏の請所(うけしよ)として推移した(馬場義一所蔵文書)。戦国末期に伊予を征圧した小早川隆景が,1586年(天正14)12月例年の競馬料送進を約した書状が残るのが荘史の終末(座田文書)。
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百科事典マイペディア 「菊万荘」の意味・わかりやすい解説

菊万荘【きくまのしょう】

伊予国野間郡にあった京都上賀茂社(賀茂別雷神社)領の荘園。現在の愛媛県菊間町(現・今治市)内に比定される。1090年に堀河天皇が賀茂上下社へそれぞれ不輸租田600余町を寄進し供料田としており,このとき菊万荘が上賀茂社領となったとみられる。1184年の源頼朝下文に荘名がみえる。1226年当荘は後嵯峨上皇から別納地として賀茂社神主氏久にあてがわれ,1310年以後,預所職は賀茂社神主家が代々相伝知行した。鎌倉末期ころの当荘の耕地面積は130町。1440年当荘の所務職は河野氏の一族得居氏が請け負っており,以後当荘は得居氏の請所となった。1585年伊予国は小早川隆景の支配下に置かれ,上賀茂社領菊万荘は消滅したと思われるが,天正14年(1586)10月正親町天皇は隆景に段銭を従来どおり社納するよう命じており,12月隆景は競馬料送進を約している。

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