平安後期の天皇(在位1086~1107)。名は善仁(たるひと)。承暦(じょうりゃく)3年7月9日生まれ。白河(しらかわ)天皇の第2皇子、母は源顕房(あきふさ)の娘賢子(けんし)(藤原師実(もろざね)の養女となる)。1085年(応徳2)に、後三条(ごさんじょう)天皇の遺子で皇太子であった実仁(さねひと)親王が病死した。白河天皇は、自分の皇子を皇位につける絶好の機会とみて、翌年8歳の善仁親王を皇太子とし、続いて皇位につけた。幼帝のため外祖父(がいそふ)である関白(かんぱく)師実が摂政(せっしょう)となったが、政治的実権は上皇となった白河が握り、院政を行った。大江匡房(まさふさ)は「今の世のことは上皇の御気色を仰ぐべきか」とその日記で評したが、天皇は成人するにつれて上皇と対立するようになっていった。嘉承(かしょう)2年7月19日死去。墓は京都市右京区龍安寺朱山(りょうあんじしゅやま)の円教寺後陵(えんきょうじのちのりょう)。
[川島茂裕]
『安田元久著『日本の歴史7 院政と平氏』(1974・小学館)』
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(渡辺晴美)
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第73代に数えられる天皇。在位1086-1107年。白河天皇第2皇子,母は中宮賢子(源顕房女,藤原師実養女)。諱(いみな)は善仁(たるひと)。白河天皇の次の東宮には父後三条院の意志で白河天皇の弟実仁親王が立ったが,後三条院は実仁の次にはその弟輔仁をという意向であったと伝えられる。1085年(応徳2)実仁親王が病没すると白河天皇は輔仁親王を東宮に立てず,翌年8歳の善仁親王を東宮とし即日譲位して院政を開始した。89年(寛治3)元服。天皇は資性すぐれ,音楽や和歌に造詣深く,政務にも熱心で,摂関家や貴族の支持もあり,白河院政には批判的で,その治世中は白河院の専制体制は確立しなかった。陵は後円教寺陵(京都市右京区)。
執筆者:黒板 伸夫
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1079.7.9~1107.7.19
在位1086.11.26~1107.7.19
白河天皇の第2皇子(第1皇子は夭逝)。名は善仁(たるひと)。母は藤原師実の養女賢子(実父は源顕房)。皇太子実仁親王の死去から1年後の1086年(応徳3)立太子し,その日に父白河から譲位をうけて践祚した。いわゆる院政の始まりとされる。他の皇位継承候補者(輔仁(すけひと)親王)に対抗し,長子(鳥羽天皇)の誕生をまって,これを皇太子に立てた。
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…しかし同親王は85年(応徳2)に没した。実仁の次の皇位はその同母弟輔仁親王へというのが後三条の遺志であったらしいが,白河は翌年寵愛する中宮賢子(源顕房女,師実養女)所生の8歳の善仁親王を東宮とし即日譲位,以後幼帝堀河天皇の後見として政治に関与する。師実は堀河即位とともに摂政となるが,実権は上皇にあり,ここに院政の基が開かれた。…
※「堀河天皇」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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