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堀河天皇 ほりかわてんのう

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

堀河天皇
ほりかわてんのう

[生]承暦3(1079).7.9. 京都
[没]嘉承2(1107).7.19. 京都
第 73代の天皇 (在位 1086~1107) 。名は善仁 (たるひと) 。白河天皇の皇子。母は関白藤原師実の養女,贈皇太后賢子。応徳3 (1086) 年即位。資性英明であったが,白河上皇が院政を創始したので,在位は形ばかりのものであった。

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デジタル大辞泉の解説

ほりかわ‐てんのう〔ほりかはテンワウ〕【堀河天皇】

[1079~1107]第73代の天皇。在位1086~1107。白河天皇の第2皇子。名は善仁(たるひと)。即位当初は白河上皇の院政期であったが、長じて政務に精励し、末代の聖王と称された。

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百科事典マイペディアの解説

堀河天皇【ほりかわてんのう】

白河天皇皇子。1086年―1107年在位。8歳での即位のため当初白河上皇が院で政務を執ったが,これが院政始まりといわれる。長ずるにおよび政務に精励,和歌・管弦にも造詣深く〈末代の賢王〉と称された。
→関連項目郁芳門院菊万荘競馬久我家讃岐典侍鳥羽天皇藤原師実藤原師通堀河百首

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

堀河天皇 ほりかわてんのう

1079-1107 平安時代後期,第73代天皇。在位1087*-1107。
承暦(じょうりゃく)3年7月9日生まれ。白河天皇の第2皇子。母は藤原賢子。父の譲位により8歳で即位。父上皇の院政下でありながらも,康和の荘園停止令をだしたり,僧徒の蜂起を制止するなど,政治力をしめした。和歌や笙(しょう),笛をよくした。嘉承(かじょう)2年7月19日死去。29歳。墓所は後円教寺陵(のちのえんきょうじのみささぎ)(京都市右京区)。諱(いみな)は善仁(たるひと)。
【格言など】世世ふれど面がはりせぬ河竹は流れてのよのためしなりけり(「金葉和歌集」)

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朝日日本歴史人物事典の解説

堀河天皇

没年:嘉承2.7.19(1107.8.9)
生年:承暦3.7.9(1079.8.8)
平安後期の天皇。白河天皇右大臣源顕房の娘賢子の子。諱は善仁。白河天皇の異母弟,皇太子実仁親王が応徳2(1085)年病没すると,父天皇の譲位で翌3年立太子と同時に即位。寛治3(1089)年元服。在位のまま病により崩ずる。在位期間22年。幼少時の即位であったことから,父白河上皇が院政を行い政治の実権を握る状態ではあった。しかし,関白藤原師通藤原通俊,さらには大江匡房らに補佐され,白河上皇との多少の摩擦はあったものの,安定した政治状況に至ったことから,後世になって末代の賢王とも称賛された。 中宮篤子内親王の影響もあって和歌を好み,自らも詠作する一方,源国信,藤原俊忠,源俊頼らの歌人たちを周辺に集め,文芸性を重視した堀河院歌壇と称されるものが形成され,『堀河院艶書合』『堀河院百首』などの後世に影響を残す斬新な試みがなされた。『金葉集』以下の勅撰集に9首の和歌が残る。また音楽も好み,笛は源政長を,笙は豊原時元を,神楽は多資忠をそれぞれ師として学び,宮中で小規模な管弦の会を繰り返し催した。その熱中ぶりは『教訓抄』『十訓抄』など数多くの説話集に逸話として残されている。多くの臣下に敬慕され,その死は深く惜しまれたが,その崩御を悼んで描かれたのが『讃岐典侍日記』である。<参考文献>橋本不美男『院政期の歌壇史研究』

(渡辺晴美)

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世界大百科事典 第2版の解説

ほりかわてんのう【堀河天皇】

1079‐1107(承暦3‐嘉承2)
第73代に数えられる天皇。在位1086‐1107年。白河天皇第2皇子,母は中宮賢子(源顕房女,藤原師実養女)。諱(いみな)は善仁(たるひと)。白河天皇の次の東宮には父後三条院の意志で白河天皇の弟実仁親王が立ったが,後三条院は実仁の次にはその弟輔仁をという意向であったと伝えられる。1085年(応徳2)実仁親王が病没すると白河天皇は輔仁親王を東宮に立てず,翌年8歳の善仁親王を東宮とし即日譲位して院政を開始した。

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大辞林 第三版の解説

ほりかわてんのう【堀河天皇】

1079~1107) 第七三代天皇(在位1086~1107)。名は善仁たるひと。白河天皇第二皇子。白河上皇の院政が行われたが、自ら政務に励み賢王と称された。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

堀河天皇
ほりかわてんのう
(1079―1107)

平安後期の天皇(在位1086~1107)。名は善仁(たるひと)。承暦(じょうりゃく)3年7月9日生まれ。白河(しらかわ)天皇の第2皇子、母は源顕房(あきふさ)の娘賢子(けんし)(藤原師実(もろざね)の養女となる)。1085年(応徳2)に、後三条(ごさんじょう)天皇の遺子で皇太子であった実仁(さねひと)親王が病死した。白河天皇は、自分の皇子を皇位につける絶好の機会とみて、翌年8歳の善仁親王を皇太子とし、続いて皇位につけた。幼帝のため外祖父(がいそふ)である関白(かんぱく)師実が摂政(せっしょう)となったが、政治的実権は上皇となった白河が握り、院政を行った。大江匡房(まさふさ)は「今の世のことは上皇の御気色を仰ぐべきか」とその日記で評したが、天皇は成人するにつれて上皇と対立するようになっていった。嘉承(かしょう)2年7月19日死去。墓は京都市右京区龍安寺朱山(りょうあんじしゅやま)の円教寺後陵(えんきょうじのちのりょう)[川島茂裕]
『安田元久著『日本の歴史7 院政と平氏』(1974・小学館)』

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世界大百科事典内の堀河天皇の言及

【白河天皇】より

…しかし同親王は85年(応徳2)に没した。実仁の次の皇位はその同母弟輔仁親王へというのが後三条の遺志であったらしいが,白河は翌年寵愛する中宮賢子(源顕房女,師実養女)所生の8歳の善仁親王を東宮とし即日譲位,以後幼帝堀河天皇の後見として政治に関与する。師実は堀河即位とともに摂政となるが,実権は上皇にあり,ここに院政の基が開かれた。…

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