平安末期、平氏一門が東方
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
兵庫県神戸市須磨区のうち大阪湾に面する一帯。背後に六甲山地の西端に当たる高取山,鉄拐(てつかい)山,鉢伏(はちぶせ)山をめぐらし,南西は明石海峡をへだてて淡路島に対する。海岸の須磨浦は白砂青松の景勝地として古来著名である。須磨はまた摂津国の西端,畿内の西の境界に当たり,播磨との交通・軍事上の要衝であった。大宰府と京を結ぶ古代の主要路であった山陽道が通り,律令制下では須磨駅や関が置かれた。1184年(元暦1)平家の大軍が範頼,義経の率いる源氏勢と一ノ谷で戦い,敗北を喫した(一ノ谷の戦)。敦盛塚などの史跡があり,現在は須磨浦公園となっている。明治期には結核療養所が開設され,大正期になると離宮や関西在住の富豪の別邸が建設された。現在の須磨離宮公園はその一つである。海岸には阪神間唯一の海水浴場をはじめヨットハーバー,海釣り公園などがあり,レクリエーション地区となっている。
執筆者:直木 孝次郎+小森 星児
古来,須磨をうたった歌は多いが,《古今集》巻十八には〈わくらばに問ふ人あらば須磨の浦に藻塩垂れつつわぶと答へよ〉という在原行平の歌がある。この歌を準拠としてつくられたともいわれる《源氏物語》須磨之巻には,政変で失脚した光源氏の須磨蟄居(ちつきよ)のようすが須磨の自然描写を織り込んで描かれている。謡曲《松風》は,行平に愛された2人の美女〈松風〉と〈村雨〉の霊が須磨の浦にあらわれて旅僧と物語りをするという筋。謡曲《須磨源氏》は《源氏物語》須磨之巻の直接の劇化である。《平家物語》に材を採った謡曲のうち,《箙(えびら)》《忠盛》《敦盛》はいずれも須磨を舞台とする。芭蕉も須磨を訪ね,その紀行文が《笈(おい)の小文》にある。
執筆者:奥村 恒哉
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兵庫県神戸市西部の地区。須磨区の南部の地域で、旧須磨町。古来景勝の地として知られる。六甲(ろっこう)山地西端の鉢伏山(はちぶせやま)、鉄拐山(てっかいざん)、高倉山などは須磨浦公園あたりで急傾斜となって海に迫る。この「平地の行き詰まったスミ」が須磨の地名の由来である。白砂青松の須磨の浦は『源氏物語』の「須磨」「明石(あかし)」、謡曲『松風』などの舞台で、いまも海水浴場や海浜公園などがある。狭い海岸にJR山陽本線、山陽電鉄、国道2号がひしめきあって通じている。一方、後背の山地を第二神明道路が通り、須磨インターチェンジが設置されている。古くから軍事、交通上の要地として百人一首にも詠まれた須磨の関が設けられ、いまも関所跡や関守町(せきもりちょう)の地名が残る。源平の古戦場でもあり、一の谷、鵯越(ひよどりごえ)、須磨寺、敦盛塚(あつもりづか)、安徳(あんとく)帝内裏(だいり)跡などがある。須磨寺は正式には上野山福祥寺(しょうやさんふくしょうじ)で、境内に敦盛首洗池などがある。また敦盛が愛用した「青葉の笛」が収納されている。明治以降は山麓(さんろく)や海岸段丘面、海岸沿いに富豪の別荘が建てられ、武庫離宮も置かれた。第二次世界大戦後、離宮や大邸宅跡は公園化され、須磨離宮公園、須磨海浜公園、須磨浦公園などとなった。また背後の高倉山、高尾山などを切り崩し、土砂を神戸市の海面埋め立てに用い、跡地を住宅地に利用する方式がとられ、大住宅団地の建設が行われた。須磨海浜公園に市立の須磨海浜水族館がある。
[二木敏篤]
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出典 日外アソシエーツ「歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典」歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典について 情報
出典 日外アソシエーツ「動植物名よみかた辞典 普及版」動植物名よみかた辞典 普及版について 情報
…シテは海人(あま)松風の霊。旅の僧(ワキ)が須磨の浦を訪れる。月の美しい秋の夜で,2人の若い女の海人(シテ・ツレ)が,月影を乗せた汐汲み車を引きながら,浜辺の夜景をめでて塩屋に帰って来る(〈上歌(あげうた)・下歌(さげうた)・ロンギ〉)。…
※「須磨」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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