20世紀日本人名事典 「蔦文也」の解説
蔦 文也
ツタ フミヤ
昭和・平成期の高校野球監督(池田高)
- 生年
- 大正12(1923)年8月28日
- 没年
- 平成13(2001)年4月28日
- 出生地
- 徳島県徳島市
- 学歴〔年〕
- 同志社大学経済学部〔昭和21年〕卒
- 主な受賞名〔年〕
- 池田町名誉町民〔平成4年〕
- 経歴
- 徳島商の稲原幸雄監督の下で昭和14年センバツに内野手、15年センバツと夏の甲子園に投手として出場。同志社大学時代は投手として関西六大学の同志社黄金時代を築く。第二次大戦時は海軍特攻隊に入隊。戦後、社会人野球・オール徳島、日鉄広畑(現・新日鉄広畑)などを経て、25年プロ野球・東急フライヤーズ(現・日ハム)に入団するが、1年で退団。26年池田高校社会科教諭となり、27年野球部監督に就任。就任20年目の46年夏の甲子園に初出場。49年センバツでは僅か11人の部員で準優勝し、“さわやかイレブン”旋風を巻き起こして注目を集めた。57年夏の甲子園では畠山準(元横浜)、58年センバツでは水野雄仁(元巨人)の両エースを軸に夏春連覇を達成。高校野球のイメージを変えた豪快なバッティングで“山びこ打線”と呼ばれ、自らは“攻めだるま”の異名をとった。61年センバツでも優勝し、春夏を通じ甲子園出場は14回、優勝3回、準優勝2回、戦績は37勝11敗。池田高校監督一筋、40年間務め、平成4年勇退した。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報