ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「蕩平策」の意味・わかりやすい解説
蕩平策
とうへいさく
T'angp'yǒng-ch'aek
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…文芸復興の王として知られ,31歳で即位し李朝では最長の治世52年に及んだ。即位当初から臣下間の党争の調停に心をくだき,蕩平策とよばれる各派閥から人材を登用する政策をとり,臣下との調和に努めた。また社会政策の面でも度支定例や均役法などの財政・税制改革を行い,寛刑の実施,申聞鼓とよばれる民衆の直訴制度の復活など,王道理念からする数々の政策を実施した。…
…西人は83年に老論派(宋時烈派)と少論派(反宋時烈の少壮派)に分裂したが,1721年に少論派が権力を掌握した一時期を除き,以後,大院君政権成立(1863)前まで,西人の老論派が政界を支配した。英祖(在位1724‐76)は少論派も登用,正祖(在位1776‐1800)も南人を登用して党争の緩和を図った(蕩平策)。老論派は,英祖による王世子処刑の適否をめぐって時派(否定的)と僻派(肯定的)の分裂はあったものの,1800年の純祖即位とともに老論派の安東金氏による勢道政治(国王の外戚による政権独占)となり,1801年のキリスト教弾圧(辛酉教獄)で南人系は多数が殺害,流刑された。…
…商業の分野でも18世紀末には自由な商人の活動が封建的な特権的御用商人の体制を圧倒し,身分制の解体もすすんで1801年には公奴婢制度が廃止された。この間,18世紀の英祖・正祖時代には人頭税の地税化等をすすめた均役法や,党争を緩和させ人材本位の官吏登用をめざした蕩平策を実施するなどして,李朝封建支配体制の再編成(立て直し)も行われた。 しかし,農村で大きな比重を占めていたのは,依然として封建的要素の強い両班地主制であり,小農民商品経済も広範に展開していくが,租税米などを基盤とする国家的商品経済や高額の小作米などを基盤とする地主的商品経済の比重は依然として大きかった。…
※「蕩平策」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加
9/20 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新