蕩平策(読み)とうへいさく(その他表記)T'angp'yǒng-ch'aek

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「蕩平策」の意味・わかりやすい解説

蕩平策
とうへいさく
T'angp'yǒng-ch'aek

朝鮮朝鮮王朝 (李朝) 第 21代の王英祖 (在位 1725~76) が党争をなくすため,党派間の政治勢力の均衡をはかった政策。英祖は即位と同時に,老論一党独裁の弊害を憂慮し,王権体制の安定を期するため蕩平策を打出した。老論,少論の人士をあわせて登用し,両党の反目を緩和するのに努めた。この政策は次の正祖のときにも用いられた。この政策はかなりの効果をあげたが,党争を根絶することはできず,時派,僻派対立を生じることになった。

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世界大百科事典(旧版)内の蕩平策の言及

【英祖】より

…文芸復興の王として知られ,31歳で即位し李朝では最長の治世52年に及んだ。即位当初から臣下間の党争の調停に心をくだき,蕩平策とよばれる各派閥から人材を登用する政策をとり,臣下との調和に努めた。また社会政策の面でも度支定例や均役法などの財政・税制改革を行い,寛刑の実施,申聞鼓とよばれる民衆の直訴制度の復活など,王道理念からする数々の政策を実施した。…

【党争】より

…西人は83年に老論派(宋時烈派)と少論派(反宋時烈の少壮派)に分裂したが,1721年に少論派が権力を掌握した一時期を除き,以後,大院君政権成立(1863)前まで,西人の老論派が政界を支配した。英祖(在位1724‐76)は少論派も登用,正祖(在位1776‐1800)も南人を登用して党争の緩和を図った(蕩平策)。老論派は,英祖による王世子処刑の適否をめぐって時派(否定的)と僻派(肯定的)の分裂はあったものの,1800年の純祖即位とともに老論派の安東金氏による勢道政治(国王の外戚による政権独占)となり,1801年のキリスト教弾圧(辛酉教獄)で南人系は多数が殺害,流刑された。…

【李朝】より

…商業の分野でも18世紀末には自由な商人の活動が封建的な特権的御用商人の体制を圧倒し,身分制の解体もすすんで1801年には公奴婢制度が廃止された。この間,18世紀の英祖・正祖時代には人頭税の地税化等をすすめた均役法や,党争を緩和させ人材本位の官吏登用をめざした蕩平策を実施するなどして,李朝封建支配体制の再編成(立て直し)も行われた。 しかし,農村で大きな比重を占めていたのは,依然として封建的要素の強い両班地主制であり,小農民商品経済も広範に展開していくが,租税米などを基盤とする国家的商品経済や高額の小作米などを基盤とする地主的商品経済の比重は依然として大きかった。…

※「蕩平策」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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