藤原伊尹(ふじわらのこれただ)(読み)ふじわらのこれただ

日本大百科全書(ニッポニカ) の解説

藤原伊尹(ふじわらのこれただ)
ふじわらのこれただ
(924―972)

名は「これまさ」とも訓(よ)む。平安中期の政治家、歌人。藤原氏北家(ほっけ)の右大臣師輔(もろすけ)の一男で、兼通(かねみち)、兼家(かねいえ)、中宮安子らの兄。母は贈正一位藤原盛子。名門の一男に生まれ、970年(天禄1)右大臣・摂政(せっしょう)に進み、翌年正二位太政(だいじょう)大臣に任じられたが、悪瘡(あくそう)のため972年11月に薨(こう)じ、謙徳公と諡(おくりな)された。また一条大路に面した邸宅に居住していたため、一条摂政とよばれた。その風貌(ふうぼう)と才知はぬきんでており、性格ははでであった。歌人としても著名で、『一条摂政御集』があり、また『後撰集(ごせんしゅう)』以下の勅撰集に37首とられている。女(むすめ)の懐子(ちかこ)は冷泉女御(れいぜいにょうご)で、花山(かざん)帝の母后となった。

角田文衛

『『大日本史料 第一編之14』(1984・東京大学出版会)』『平安文学輪読会編『一条摂政御集注釈』(1967・塙書房)』


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