摂政(読み)せっしょう

精選版 日本国語大辞典 「摂政」の意味・読み・例文・類語

せっ‐しょう ‥シャウ【摂政】

〘名〙
① 君主に代わって政治をとり行なうこと。また、その人。
※続日本紀‐天平宝字七年(757)正月庚申「李家太上皇少帝並崩、広平王摂政、年穀不登、人民相食」 〔礼記‐文王世子〕
② 前近代において、天皇が幼少または女帝などの時、天皇に代わって政治を行なうこと。また、その職や人。古くは王族がこれに当たったが、平安時代以後は藤原氏の大臣がこれを兼ねるのを例とした。しょうしょう。
※三代実録‐貞観一八年(876)一二月一日「右大臣基経抗表、辞摂政言」
※読本・椿説弓張月(1807‐11)拾遺「われ幼主を補佐して、摂政(セッセウ)に私なく、民の為に疲労(つかれ)たり」
③ 明治以降、天皇の代理機関。天皇が未成年のときや、精神もしくは身体の重患、または重大な事故により国事に関する行為をみずからすることができないときに置かれる。皇室会議の議を経て、成年に達した皇族が、一定の順序により就任する。
大日本帝国憲法(明治二二年)(1889)一七条「摂政を置くは皇室典範の定むる所に依る」
[語誌](1)古代の中国・朝鮮の文献にも見え、皇帝が老齢・幼少などのために政務をとれないとき、代わって統治する者をいった。
(2)日本では、古くは仲哀天皇崩御後の神功皇后推古天皇の時の厩戸皇子斉明天皇の時の中大兄皇子、天武天皇の時の草壁皇子が知られるが、いずれも皇族であった。人臣の摂政は清和天皇の時に外祖父藤原良房が任じたのを最初とする。

しょう‐しょう セフシャウ【摂政】

〘名〙 天皇が幼少のとき、代わって政治を行なう職。せっしょう。
※源氏(1001‐14頃)澪標「致仕のおとどせふ正し給ふべきよし、譲り聞こえ給ふ」

せっ‐せい【摂政】

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デジタル大辞泉 「摂政」の意味・読み・例文・類語

せっ‐しょう〔‐シヤウ〕【摂政】

君主に代わって政治を執り行うこと。また、その人。
昔、天皇が幼少または女帝などのとき、代わって政治を行うこと。また、その職。元来皇族が任ぜられたが、平安前期、清和天皇幼少のために藤原良房が任ぜられて人臣の摂政が始まった。
天皇が未成年(満18歳未満)のとき、または精神・身体の重患や重大な事故によって国事行為をみずから行えないとき、天皇の名で国事行為を行う人。皇室典範により、一定の順序で成年の皇族が任ぜられる。

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改訂新版 世界大百科事典 「摂政」の意味・わかりやすい解説

摂政 (せっしょう)

君主に代わって万機を執り行う者,または執り行うことをいう。君主が未成年の間,あるいは君主に事故があった場合などに置かれる。

摂政はその出自より大別して,皇族摂政人臣摂政に分けられる。《日本書紀》に仲哀天皇没後神功皇后が摂政になったとあるのを摂政の初例とするが,これは摂政というより称制というのにふさわしく,また伝説的要素も多く,信をおきがたい。古代における摂政の確実な例は,推古天皇の皇太子厩戸(うまやど)皇子(聖徳太子),斉明天皇の皇太子中大兄皇子,天武天皇の皇太子草壁皇子の3例で,いずれも皇太子が天皇に代わって万機を摂行し,皇太子摂政ともいう。これに対し人臣摂政は,866年(貞観8)清和天皇の外祖父藤原良房が補任されたのに始まる。ついで陽成天皇が9歳で践祚すると良房の嗣子基経が摂政に補任され,天皇在位中その任にあった。その後,宇多天皇が践祚すると,基経が関白に補任され,ここに摂政・関白の制が定まった。しかし基経が没するや宇多天皇や醍醐天皇は摂政・関白を置かなかったが,朱雀天皇が930年(延長8)8歳で践祚すると直ちに藤原忠平を摂政とし,ついで天皇の元服後の941年(天慶4)に関白に補任されるに及び,天皇幼少の間は摂政を,成人の後は関白を置くのが例となった。以後,明治維新に当たって摂政・関白等が廃止されるまで,良房以来1000年にわたり延べ60人,実人員46名の人臣摂政を数えた。

 摂政の補任は,古くは皇太子であるから,皇太子であるのを摂政の資格としたごとくであるが,人臣摂政の場合は(1)天皇の外戚,(2)藤原氏北家一流,(3)大臣またはその経験者であるのを資格とした。しかし平安時代末の鳥羽天皇のとき,藤原忠実が天皇と外戚関係なく摂政になって以来,(1)は必ずしも摂政の資格ではなくなり,(2)(3)が全時代を通じての摂政の資格である。なお摂政は当初は必ず大臣の兼摂する職であったが,986年(寛和2)6月摂政となった藤原兼家が翌7月右大臣を辞任して摂政専任の例を開いて以来,摂政は正官のごとくにみなされ,摂政はその在任中に大臣を辞任する例も少なくない。かくして以後,前大臣も摂政に補任されることになった。摂政の補任は,譲位践祚においては先帝の譲位の宣命において,先帝の没による践祚の場合は太上天皇の詔旨を載せる宣命で,その他在位中の場合は詔書をもって補任された。明治以降における摂政の補任も詔書が公布された。また摂政の解任は,天皇の没・譲位および摂政が没した場合のほか,天皇の成長やさらに政治的原因によった場合もある。

 摂政は天皇に代わって万機を摂行するが,詔書等に加える宸筆の代書,官奏を見,奏下一切の文書の内覧,摂政の直廬(ちよくろ)において叙位・除目(じもく)を行うほか,天皇の元服に当たっては加冠を行うなどの職掌がある。また摂政は,一座宣旨(いちざのせんじ)を賜って大臣の上に列するほか,身辺の護衛や儀仗のために随身兵仗を賜り,牛車で宮中に出入りを許されるほか,藤原氏長者の宣旨を下されているが,これらの待遇は平安時代の中期から後期に至って定制となった。
摂関政治
執筆者:

1889年に公布された大日本帝国憲法は摂政の制度を定め(17条),旧皇室典範は天皇が未成年の場合と,病気など久しきにわたる故障によって親政が不可能な場合に摂政を置くものとしていた。1921年天皇の病に際し,皇太子裕仁親王が摂政に補任されたのがその実際例である。

 日本国憲法(1946公布)においても,この,天皇の法定代理機関たる摂政の制度は定められている(5条)。どんな場合に摂政が設けられるかは皇室典範に任されているが,現在は,天皇が未成年(18歳未満)のときと,精神もしくは身体の重患または重大な事故のために国事に関する行為をみずからすることができないと皇室会議が認めたときに設置される。海外旅行のときや摂政を置くほどではない一時的な故障の場合は,大日本帝国憲法の下では定めがなかったが,第2次大戦後の日本国憲法の下では〈国事行為の臨時代行に関する法律〉(1964公布)があり,委任による臨時代行が行われている。摂政になる資格,順序,更迭についても皇室典範に定めがあるが,女性を含む成年皇族が一定の順序で就任する。天皇が成年に達したとき,または故障がなくなったときには摂政は終了する。摂政は天皇の名で国事行為を行い,当然に国政権能はもたない。また通常,天皇とは異なり日本国および日本国民統合の象徴とは考えられていない。摂政には,その在任中刑事訴追されない特典がある。
執筆者:

君主に代わって政治を行った最初といえば,周の成王が幼くして父武王の死にあい,天子の位についたが,叔父の周公(旦)がこれをたすけて政を摂(と)ったという故事であろう。もっとも《史記》五帝本紀は,尭が舜を挙げ,舜に政を摂らしめたということを記すが,尭舜伝説より周公摂政の方がはるかに儒教伝説として重要であり,孔子の尊崇した聖人周公のことであるから直接関係が深い。漢の昭帝が幼かったので霍光(かくこう)が武帝の遺詔により政を摂ったのが外戚摂政の実例であろう。また漢の高祖の死後恵帝の時代に呂太后が政治の実権を握り,太后称制といって,皇帝の母親が後見としていわゆる垂簾の政を行った(皇太后)。また唐の玄宗は即位の前年から睿宗の皇太子として太子監国となり,六品以下の除官と徒罪以下の判決を行ったが,《唐六典》の春宮の官制の中に皇太子が国事を監した場合が予想された記述があり,これも摂政の一形態といえる。
執筆者:

フランスでは摂政の制度を明記した法律はなく,随時,母后・王妃・叔父・姉・近縁者などが摂政になっている。バロア朝ではシャルル8世の未成年期に姉アンヌ・ド・ボージューが摂政を務めた(1483-84)。ブルボン朝になってからは,アンリ4世が出征に際し王妃を摂政に任じたことがあり,ルイ13世,ルイ14世,ルイ15世はいずれも摂政時代を経験している。すなわち,ルイ13世幼時の母后マリー・ド・メディシス(1610-14),ルイ14世幼年期の母后アンヌ・ドートリシュ(1643-51),ルイ15世治世初期のオルレアン公フィリップ3世(ルイ14世の甥。1715-23)がそれである。ただしフランス史で〈摂政時代Régence〉といえばルイ15世初期の時代を指し,〈摂政Régent〉とはフィリップ・ドルレアンPhilippe d'Orléans(1674-1723)のことである。この時代は,長期にわたったルイ14世の治世に対する反動期で自由奔放な気風にあふれ,社会風俗が乱れたことで知られる。政治外交面では枢機卿にもなった宰相デュボアが実権を握り,イギリス,オランダと同盟してスペインに対抗する政策をとった。経済面ではスコットランドの実業家ジョン・ローが財務長官になり植民地経営,銀行設立を推進したが,結局失敗して財政破綻をきたした。美術の面でも独特な装飾様式を生み出し,新思想も芽生えたので,フランス革命の淵源・萌芽の時代と見られることもある。

 イギリスでもノルマン朝のころから王の不在中に大司法官が摂政を務めた例は多く,近世ではもっぱら議会の法令によって決定された。しかしイギリス史で〈摂政時代Regency〉というと,ジョージ3世が脳病を患い皇太子(のちのジョージ4世)が摂政となった時期(1811-20)を指す。ナポレオン戦争の末期で,ラッダイト運動,ピータールーの虐殺事件などが起こった時代である。
執筆者:

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百科事典マイペディア 「摂政」の意味・わかりやすい解説

摂政【せっしょう】

君主に代わって政務をとること,またはその者。古代日本では天皇の諸権限の完全な代理で関白より地位が高い。推古天皇当時の聖徳太子が最初。臣下では藤原良房が866年に就任。以後,藤原氏がこれを独占,天皇幼少の時などに就任,明治に及んだ。現在では皇室典範(てんぱん)に基づき,天皇が成年(満18歳)に達しない場合,もしくは天皇が精神・身体上の重大な事故で国事行為を行えない場合に置かれる。
→関連項目飛鳥時代一条実経一条天皇氏長者円融天皇王(皇室)外戚九条道家後一条天皇皇室会議皇太后皇太子国事行為代行法五摂家近衛家木幡四条天皇推古天皇清和天皇摂関摂関家渡領摂関政治大正天皇太傅鷹司家仲恭天皇藤原兼家藤原忠実藤原忠通藤原師実藤原頼経陽成天皇

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「摂政」の意味・わかりやすい解説

摂政
せっしょう

天皇にかわって大政を摂行する重職。摂籙(せつろく)、執柄(しっぺい)などともいう。記紀によれば、応神(おうじん)天皇のときの神功(じんぐう)皇后が初例といわれ、推古(すいこ)朝の聖徳太子をはじめ、古くは皇族がこれに任ぜられたが、866年(貞観8)清和(せいわ)天皇の外祖父太政大臣(だいじょうだいじん)藤原良房(よしふさ)が臣下として初めて摂政の詔(みことのり)を受け、さらに冷泉(れいぜい)天皇(在位967~969)のころから、天皇幼少の間は摂政を、成年後は関白を置くのが慣例となり、朝廷最高の地位として「一(いち)の人」ともよばれた。そして制度上は、関白が天皇の補佐としてなお臣下の地位にとどまったのに対し、摂政は天皇の代理者として、ほとんど天皇に等しいといわれ、詔書に画可(かくか)(本来は天皇が「可」の字を親署する)を加える権限などをもった。良房以降、摂政は藤原氏北家(ほっけ)に伝えられ、藤原氏長者(うじのちょうじゃ)を兼帯するのが例となり、さらに道長(みちなが)以後はその子孫に独占されて江戸時代末に及んだが、王政復古の発令に際して、関白とともに廃止された。

[橋本義彦]

憲法上の摂政

1889年(明治22)の旧憲法(大日本帝国憲法)上、天皇の名において大権(たいけん)を行使する者を摂政といい(17条)、旧皇室典範では、天皇が未成年(18歳未満)もしくは心身上の重患等の際、皇族会議および枢密顧問の議を経て原則として成年の皇族が任ぜられることになっていた(19条以下)。1921年(大正10)大正天皇の重患により、皇太子裕仁(ひろひと)親王(のちの昭和天皇)が摂政に就任したのはこの制度によるものである。

 日本国憲法上は、「摂政は、天皇の名でその国事に関する行為を行ふ」(5条)にすぎない。現皇室典範によれば、摂政は、天皇が未成年(18歳未満)のとき、もしくは心身上の重患または重大な事故の存するとき皇室会議の議によって置かれ(16条)、その在任中訴追されない(21条)。成年に達した皇太子または皇太孫を第一位とする皇族の摂政就任順位が定められている(17条)。

[畑 安次]

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普及版 字通 「摂政」の読み・字形・画数・意味

【摂政】せつしよう(しやう)

君主に代わって政治を行う。〔礼記、文王世子〕仲尼曰く、昔(むかし)を攝し、(そ)(王の位)を踐(ふ)みて治め、世子(太子)の法を伯禽(はくきん)に抗(あ)ぐ。王を善くする以(ゆゑん)なり。

字通「摂」の項目を見る

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「摂政」の意味・わかりやすい解説

摂政
せっしょう

天皇が幼少であるか,女帝である場合,天皇に代わって政務を行なう職。摂政の初見は応神天皇のときの母神功皇后で,その後,推古天皇のとき聖徳太子が摂政となっている。しかし令制には取り入れられなかった。天安2(858)年清和天皇が 9歳で即位すると,ときの太政大臣藤原良房が政務を行ない,貞観8(866)年に万機摂行の詔を受け,人臣として初めての摂政となった。10世紀以後,幼帝の場合は常に摂政,成人ののちは関白が置かれ,藤原氏がこれに就任し,明治維新にいたった。1889年皇室典範に,皇族摂政の制が定められ,1921年大正天皇が病気のため,皇太子裕仁親王が摂政を務めた。第2次世界大戦後においては,日本国憲法5条に摂政は憲法上天皇の職務とされている「国事に関する行為」を,天皇の名において行なう。天皇が未成年の場合は,摂政は当然に設置されるが,その他の場合は,皇室会議の議によって置かれるとあり,また,摂政の必要な場合に,だれがそれに就任するかについて,皇室典範17条は,皇太子または皇太孫,親王および王,皇后,皇太后,内親王および女王の順位を定めている。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「摂政」の解説

摂政
せっしょう

勅命をうけて天皇にかわって国政を執り行うことおよび執る者をいう。唐名から摂籙(せつろく)・博陸とも,殿下・一の人ともいう。「日本書紀」は神功皇后摂政紀を設けているが,伝説的要素が強く,勅命をうけたものでもない。推古朝の厩戸(うまやど)皇子,斉明朝の中大兄(なかのおおえ)皇子,天武朝の草壁皇子の摂政は,令制以前の執政者たる皇嗣の姿を伝えるもので,皇族摂政という。それに対して,平安時代以後の藤原良房に始まる人臣摂政は,藤原氏がおもに幼少の天皇の外戚として国政を代行したもので,のちには天皇が幼少の間は摂政が,成人後は関白がおかれるのが通例となった。摂政・関白をあわせて摂関という。権限は,詔書・論奏の御画(ぎょかく)の代筆をはじめ,叙位・任官を行い官奏を聴くなど,天皇とかわりなかった。なお,やや特殊な例として准摂政がおかれたことがある。摂関制は1867年(慶応3)の王政復古にともない廃止されたが,「皇室典範」で新たに摂政が定められ,これにのっとって1921年(大正10)に皇太子裕仁(ひろひと)親王(昭和天皇)が摂政となった。

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旺文社日本史事典 三訂版 「摂政」の解説

摂政
せっしょう

天皇に代わって政務全般を行う官職
本来天皇が幼少のときや女帝のときに皇族がその任についた。593年聖徳太子がなったのが最初。臣下では,858年清和天皇が幼少のため外祖父の藤原良房がその任についたのが最初である。10世紀後半から常置の官となり,藤原北家が独占して江戸末期に至った。

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とっさの日本語便利帳 「摂政」の解説

摂政

天皇が幼少の時、それに代わって国政を行うこと、およびその職名。聖徳太子が推古天皇の摂政であったように、元来は皇族が任じられるものであったが、九世紀半ばより藤原氏が独占するようになる。

出典 (株)朝日新聞出版発行「とっさの日本語便利帳」とっさの日本語便利帳について 情報

世界大百科事典(旧版)内の摂政の言及

【摂関政治】より

…平安時代,藤原氏出身の摂政関白が天皇に代わって,あるいは天皇を補佐して行った政治。とくに967年(康保4)冷泉天皇の践祚後まもなく藤原実頼が関白となってから,1068年(治暦4)後三条天皇が皇位につくまでの約100年間の政治形態をいう。…

【天皇】より

…令制の太政大臣が唐制の三師,三公と異なる点は,菅原道真が指摘したように,分掌はないが,太政官の職事として天下の政を知り行うところにある。この権能がやがて人臣摂政に移り,さらに関白の職権となった。摂政は天皇幼少の間,天皇に代わって大政を摂行する臨時的な地位であるが,関白は大政総攬の権能をもつ天皇のもとで,百官総己を職権として執政する地位であった。…

【藤原良房】より

…857年(天安1)2月に良房は太政大臣となったが,これは令制の太政大臣とともに令制前の太政大臣の地位をも継承していたようで,実際には関白にふさわしい地位であった。翌年文徳天皇の死で清和天皇が9歳で即位し,良房は太政大臣として実際には摂政としての機能をもった。864年(貞観6)正月に15歳の天皇が元服し,866年に応天門の変で足場をかためた良房は,天皇の〈天下の政を摂行せしむ〉との詔をえて摂政となった。…

※「摂政」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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