蛭島
ひるがしま
源頼朝が永暦元年(一一六〇)一四歳にして流罪となり、治承四年(一一八〇)三四歳で挙兵するまでを過ごした蛭ヶ小島として有名。しかし「吾妻鏡」などには単に「蛭島」とのみ記されており、蛭ヶ小島・蛭ヶ中島・蛭ヶ大島のいずれとも不明。小島を流罪の地としたのは、「豆州志稿」完成の寛政一二年(一八〇〇)頃に江川英毅(英龍の父)が現在地に土地を求め、建碑して以来のことである。なお付近には和田島・五ッ島・土手・松並などの地名があり、狩野川氾濫原の中洲であったことは明らかである。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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