朝日日本歴史人物事典 「行方久兵衛」の解説
行方久兵衛
生年:元和2(1616)
江戸前期の若狭国(福井県)小浜藩士。水没した三方五湖周辺地域救済のため浦見坂を開削した。名は正成。寛永7(1630)年中小姓並で出仕の後,同20年家督,140石。作事奉行を経て万治2(1659)年郡奉行。寛文2(1662)年の大地震で三方五湖周辺が冠水したため,普請奉行梶原重安と共に排水路の開削に着手,翌年勘定奉行に転じたが工事を続け,人夫22万人,費用1700両かけて同4年完成。「掘かけてとおらぬ水の恨こそ行方故のしハさなりけり」などと非難中傷される難工事であったが排水に成功,400石の新田が出来た。延宝6(1678)年三方郡金山村新田御用加役,天和1(1681)年致仕。<参考文献>須磨千穎「行方久兵衛」(『若越山脈』4巻)
(隼田嘉彦)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報