清の太祖ヌルハチの建てた国。ヌルハチは建州女真族の名家の出であったが,その25歳の1583年に祖父と父とを明軍に誤って殺されたのを機に,わずかの手勢をもって自立して女真族の統一事業に乗り出した。88年までに建州女真族の統一を達成したが,その間87年に本拠地の蘇子河畔にフェアラ城(今の遼寧省新賓県旧老城にあたる)を築いた。いっぽう明朝に対してはつとに恭順の態度をとって和好をつづけ,89年(万暦17)明から都督僉事(せんじ)に任ぜられ,95年には竜虎将軍に封ぜられた。91年鴨緑江部を併呑して,撫順以東,鴨緑江・長白山南側地区まで支配区を広げた。93年海西女真族のエホ,ハダ,ウラ,ホイファをはじめモンゴルのコルチンなど9国の連合軍3万を撃破してから,その勢力はますます強大になった。以来ヌルハチは1616年(天命1)までに,東方ではウスリー江流域より東海女真族の地方までを平定し,西方ではハダ(1600),ホイファ(1607),ウラ(1613)の3部を兼併して,女真族をほとんど統一した。
この間1603年に居城をヘトアラ(興京老城)に移し,15年八旗制度を整えて軍国体制を固めた。16年ヌルハチはハンの位につき,国号を後金,年号を天命と定めた。19年サルフの戦で明軍に大勝をえてから明の遼東地方への進出を本格化したが,業半ばで26年死去した。なお清朝の官撰の史書では,建国と建元を1616年におくが,朝鮮史料では早くとも1619年のこととされるので,1616年は潤色とみなされている。また国号を後金と称した事実についても,これを抹殺して当初から満洲Manjuと称したと改作をほどこしている。
執筆者:若松 寛
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中国、清(しん)朝建国以前(1616~36年の間)の国号。建州左衛(けんしゅうさえい)出身の太祖ヌルハチは女直(じょちょく)(女真(じょしん))民族の統合に伴い、1616年に八旗の諸貴族、大臣に推されて、スレ・ゲンギエン・ハン(聡明(そうめい)なる汗)の尊号を受けてハンの位についた。のちになって編纂(へんさん)された『満州実録』(清朝の官撰(かんせん)歴史書)では、このときを後金国(金朝の後継王朝という意)の建国、天命元年としている。当時、女直民族統合国家の名称としてはマンジュ国があり、一方、対外的には、明(みん)や朝鮮に対して、金(アイシン)、後金国が使われていた。後金は2代太宗ホンタイジの1636年、満州・蒙古(もうこ)・漢人を支配する中央集権的な国家への転換期に「大清」の国号に変わった。
[細谷良夫]
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清朝建国時の国号。女直(じょちょく)(真)族を統一したヌルハチは,1616年推されてハン位につき,国号をアイシン(Aisin)すなわち金と称したことによる。その呼称は12世紀に起こった女直(真)族の金にちなんだものであり,一般に後金と記される。その名は太宗(ホンタイジ)の1636年清と改められた。また金の呼称をきらった太宗は,それ以前の後金時代を満洲(マンジュ〈Manju〉,満珠)と呼んだ。
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…1616‐1912年。はじめ国号を後金と称し,1636年(崇徳1)に清と改めた。東北を統一した後,44年(順治1)長城を越えて中国本土に入って国都を瀋陽から北京にうつし,明朝滅亡の後を継いで全中国を統治する征服王朝となった。…
※「後金」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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