西富仲町
にしとみなかちよう
町のほぼ中央を南北に土屋町通が、南寄りを東西に仁和寺街道が通る。平安京大内裏「大蔵省」の跡地(「拾芥抄」の宮城指図)。
近世の聚楽第遺構では、西部外郭の水堀跡。廃城後は最も低湿な地域となったが、寛永年中(一六二四―四四)に開発され、小字名の富仲をもった町名として、東西富仲町が成立したという(坊目誌)。寛保初京大絵図では「なへ丁」とみえ、宝暦一二年(一七六二)刊「京町鑑」には、「富仲町、又一名鍋屋町とも云、北側南側二町に分る」とあるが、この頃には「西富仲町」と「東富仲町」に分れていたようである。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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