覚海社
かつかいしや
[現在地名]高野町高野山
現遍照尊院の南側の山を遍照岡といい、その東端にある小祠。前に看経所を建てる。貞応二年(一二二三)八二歳で没した花王院覚海の廟所と伝える。覚海は建保五年(一二一七)高野山三七代検校に補せられ、その頃勃発した吉野金峯山との寺領争論の解決に力を尽し、承久二年(一二二〇)検校を辞任した(「高野山検校帳」又続宝簡集ほか)。貞応二年八月一七日、伽藍中門の扉を両翼にして翔天したと伝える。寛保二年(一七四二)蓮金院維宝が記した覚海大徳伝には「護秘法の威猛依身を受け、身体羽翼を生じて飛行自在なり、修鼻突出して彎笋の如く、遍身赤黒にして毛髪銅針に類せん」とある。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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