(1)撿挍とも書く。ものごとを点検し,誤りを正すというもとの意味から,のちにその任にある人,さらに職名となった。中国の検校(けんこう)は南北朝以来の官名だが,日本では《日本書紀》推古32年(624)の条に〈僧正僧都に任じ,よってまさに僧尼を検校せしむべし〉とあるのが初例である。大宝令には〈采女(うねめ)等を検校することを掌る〉と,采女司の采女正の職掌の説明が見え,検校の語の古い用例がわかる。
(2)寺社の検校。平安時代から僧職として現れるが,寺社によって,常置または臨時のもの,また職掌や性格も異なる。寺では高野山,熊野三山,金峰山(きんぷせん),無動寺,楞厳(りようごん)院,宝幢(ほうとう)院,平等院の検校,神社では石清水(いわしみず),春日,日吉(ひえ),祇園などの神宮寺の検校は,一山全体の頭領として寺務や社務を統監し,絶大な権勢を振るった。南都七大寺や六勝寺では,諸寺の上に惣検校という臨時の職が置かれたこともある。また,寺社によっては,検校は二位以下の僧職のこともあり,法会や修理造営のとき,一切経会(いつさいきようえ)検校とか修理検校という臨時の検校が置かれる例もある。寺領荘園の荘官やときには国衙(こくが)の役人にも検校の称があり,これらは俗人の検校とも考えられる。
(3)盲人最高の官位としての検校。中世以来,盲人は普通は法体となり,平家琵琶(びわ),鍼灸(しんきゆう),もみ療治,箏曲,三味線などの職業に従った。これらの盲目法師らは幕府の公認で,公家の久我家を本所として,当道座という団体をつくって,盲人の位をつかさどり,職業の専有化をはかった。当道座では,初心,座頭,勾当(こうとう)と地位が進み,最高位が検校であり,京都に住んだ職検校が全体を支配した。検校は法印,勾当は法眼(ほうげん)・法橋(ほつきよう)の僧官に準ずるものとされて,その権威と社会的地位は高かった。近世には,盲人は一般に座頭(ざとう)と呼ばれ,前代からの伝統的な職業についていたが,幕府はこれを統制し,職業や生活の面で種々の規制を加えた。検校はその最高の地位で,17世紀ごろから幕府は京都の職検校とは別に,江戸に惣録(そうろく)検校を置いて役料や屋敷を与え,関八州の盲人や当道座を支配させた。検校に任ぜられた盲人は,年によっては全国で100人前後に及んだこともある。検校となると撞木杖(しゆもくづえ)や紫衣(しえ)を許され,権威はもとより収入もふえ,蓄財に走る者もあったが,この地位を得るためには莫大な礼銭を必要としたので,〈検校千両〉という言葉さえ生まれた。
執筆者:藤井 学
中国の官名。正官を授けられずその任にあたるとき,仮官として検校の字を冠する。検校御史,検校祭酒など南北朝以来ある。宋代には検校太師から検校水部員外郎まで多くの名目的な検校官があり,武官に文官の肩書として与え,また文官を武官に任命するときこれを加えた。元代の中書省には検校官という公文書を扱う官があり,明代の各官庁にも置かれ,清代には各府に置かれた。日本では僧尼をとりしまる官名として用いられ,のちには盲人の統率者を意味し,検校(けんぎよう)という。
執筆者:植松 正
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検挍とも書く。点検典校の意から、中国では経籍(けいせき)をつかさどる官名などに用いる。日本では、事務を検知校量することから、平安・鎌倉時代の荘官(しょうかん)の職名に用いられた。しかし、とくに僧職の名として用いられる場合が多く、寺社の事務を監督する職掌をいう。常置の職としては、896年(寛平8)東寺の益信(やくしん)が石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)検校に任ぜられたのが初出で、高野山(こうやさん)、熊野三山、無動寺などにおいても、一山を統領する職名であった。法会(ほうえ)や修理造営の行事を主宰する者の呼称としても用いられる。中世には盲目の琵琶法師(びわほうし)仲間(当道(とうどう)座)の長老も検校とよばれ、『師守(もろもり)記』貞治(じょうじ)2年(1363)条の「覚一(かくいち)検校」が初見とされる。江戸時代には当道座が幕府によって認められ、惣(そう)検校の下に検校・別当・勾当(こうとう)・座頭(ざとう)などの官位があった。また、江戸には関八州の盲僧を管轄する惣録(そうろく)検校も置かれた。平曲のほか地歌、箏曲(そうきょく)、鍼灸(しんきゅう)、按摩(あんま)などに従事する者で官位を目ざす者は試験を受け、多額の金子(きんす)を納めてこの職名が授けられた。
[石川力山]
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出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
社寺やその行事を総裁する名誉職的な僧職。本来は経律や伽藍造作の調査の意味だったが,初唐以降しだいに僧職名として定着。日本では「文徳実録」斉衡2年(855)9月28日条の「修理東大寺大仏司検校」,貞観3年(861)3月14日付「供養東大寺盧舎那(るしゃな)大仏記文」の「僧行事検校」などが初例。これらは臨時の職だったが,896年(寛平8)益信(やくしん)を八幡検校に任じた例などを初見として,金剛峰寺・熊野三山・無動寺・平等院・金峰山(きんぶせん)・石清水八幡・春日・日吉・鹿島・祇園等の社寺に常設されるに至った。この他「塵添壒嚢鈔(じんてんあいのうしょう)」14所引の「東大寺縁起」に聖宝(しょうぼう)が任じられた「七大寺惣検校」の名がみえるが,これも名誉職的なものとみられる。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
…その芸能が〈平曲〉としてとくに武家社会に享受され,室町幕府の庇護を受けるに及んで,平曲を語る芸能僧たちは宗教組織から離脱して自治的な職能集団を結成,宗教組織にとどまっていた盲僧と区別して,みずからを当道と呼称した。覚一(かくいち)検校(1300?‐71)の時代に至って,組織の体系化が行われ,当道に属する盲人を,検校,勾当(こうとう),座頭などの官位に分かち,全体を職(しよく)または職検校が統括し,その居所である京都の職屋敷がその統括事務たる座務を行う場所となった。さらに,仁明天皇の皇子で盲人の人康(さねやす)親王を祖と仰ぐなどの権威づけを行い,治外法権的性格を持つに至った。…
…如一は《平家物語》の詞章の改訂に着手したが,その弟子で〈天下無雙(むそう)の上手〉といわれた明石覚一(あかしかくいち)(?‐1371)はさらに改訂・増補を重ね,〈覚一本〉とよばれる一本を完成し,一方流平曲の大成者として以後の平曲隆盛の基盤をつくった。このころ,平曲を語る盲人たちは,〈当道(とうどう)〉という座を結成し,お互いの縄張りを確保するようになるが,覚一は文献上最初の検校(当道座の最高位)であり,当道の祖といわれる。覚一以後,平曲は最盛期を迎え,平曲家の増大にともなって一方流が妙観,師道,源照,戸嶋の4派,八坂流が妙聞,大山の2派に分かれた。…
…この平曲の座は天夜尊(あまよのみこと)(仁明あるいは光孝天皇の皇子人康(さねやす)親王ともいう)を祖神とする由来を伝え,祖神にちなむ2月16日の積塔(しやくとう),6月19日の涼(すずみ)の塔に参集して祭祀を執行した。座内には総検校以下検校(けんぎよう),勾当(こうとう),座頭(ざとう)の階級があり,座衆は師匠の系譜によって一方(いちかた),城方(じようかた)の平曲2流に分かれていた。権門を本所(ほんじよ)として祭事を奉仕し,その裁判権に隷従するのは他の諸芸能の座と同様であるが,本所の庇護と座衆の強い結束によって彼らは諸国往来の自由を獲得し平曲上演の縄張を広げ,室町時代に平曲は最盛期を迎えた。…
※「検校」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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