伊都郡
いとぐん
面積:三五四・七七平方キロ
高野町・九度山町・高野口町・かつらぎ町・花園村
和歌山県北東部に位置し、北部を紀ノ川が西流、南部の中央には高野山がある。北は和泉山脈を境に大阪府と接し、西は那賀郡・海草郡・有田郡、東は防城峯・陣ヶ峰・白口峰と連なる山嶺を境に奈良県と接する。また北東に隣接する橋本市は、かつては当郡に含まれた。郡の北部は紀ノ川流域の丘陵地帯であるが、南部は高野山周辺の楊柳山(一〇〇八・五メートル)・摩尼山(一〇〇四メートル)などの山々からなる山岳地帯である。
郡名の初見は、「日本書紀」天武天皇八年条の「紀伊国の伊刀郡芝草を貢れり」との記事であるが、「伊都」の字があてられたものとしては、天平二年(七三〇)の紀伊国大税帳(正倉院文書)が早い。このほか平城宮出土木簡には「伊東郡」、安元元年(一一七五)一〇月九日付僧覚算田畠譲状(角田文衛氏所蔵文書)には「糸郡」、「諸寺縁起集」醍醐寺本には「伊土郡」などの用例がみえる。
〔原始・古代〕
古墳時代以前の遺跡はほとんどが紀ノ川流域、あるいはその両側の丘陵地に分布する。縄文時代の遺跡としては、かつらぎ町の渋田遺跡・中飯降遺跡・移遺跡(ともに散布地)、弥生時代では高野口町の名古曾I遺跡・同II遺跡、かつらぎ町の船岡山遺跡・佐野遺跡などがあげられる。船岡山遺跡と佐野遺跡は集落遺跡であるが、船岡山遺跡では縄文時代から中世・近世に至る遺物が出土、佐野遺跡は紀ノ川中流域では大規模な集落遺跡の一である。古墳には九度山町の真田古墳、高野口町の応其古墳があり、応其古墳は後期の横穴式石室であるが破壊されて原形をとどめない。
「日本書紀」大化二年(六四六)正月一日条にみえる大化改新の詔によれば、現かつらぎ町の背山は畿内の南限とされており、このことから、伊都郡のうち紀ノ川以北は畿内に属したと推定できる。紀ノ川北岸沿いを南海道(のちの大和街道)が通り、高野口町の応其台地には条里遺構が残り、付近には条里遺称と思われる小字もある。応其台地西方の名古曾には白鳳時代の名古曾廃寺跡があり、佐野遺跡の廃絶後に建てられた佐野廃寺は「日本霊異記」にみえる狭屋寺に比定される。なお名古曾廃寺跡の北には八世紀の火葬墓があり、小児用の三彩蔵骨器が出土している。
「和名抄」は伊都郡の郷として五郷を記し、このうち神戸郷はかつらぎ町の紀ノ川南岸沿いの地域、村主郷は高野口町と橋本市の境一帯、指理郷はかつらぎ町東部の西飯降・中飯降を中心とした地域、桑原郷はかつらぎ町西部の笠田中・同東・大谷・佐野付近に比定される。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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