豊楽寺村
ぶらくじむら
[現在地名]建部町豊楽寺
もとは東方の下神目村に属し、豊楽寺寺地に付属する百姓開地が高付され、その耕地を中心に分村した。正保郷帳・元禄郷帳には村名がなく、「西作誌」にも記載されない。元禄一六年(一七〇三)の豊楽寺境内山林町間書上(豊楽寺文書)には「下神目村豊楽寺」とあり、享保二年(一七一七)刊の「美作鬢鏡」には「豊楽寺村、高七七石余」とみえ、延享二年(一七四五)の豊楽寺由緒書(豊楽寺文書)でも「豊楽寺村豊楽寺」とあり、宝永―正徳期(一七〇四―一六)に分村したと考えられる。これに対して元禄八年の下神目村并善三郎先祖書上(菅文書)は、二〇年以前の延宝三年(一六七五)頃に豊楽寺村と安ヶ乢村(現久米郡久米南町)が分村し、当時下神目村には四本の下札が下されていたという。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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