豊璋(読み)ほうしょう(その他表記)P`ung-jang

改訂新版 世界大百科事典 「豊璋」の意味・わかりやすい解説

豊璋 (ほうしょう)
P`ung-jang

朝鮮,百済義慈王の子。生没年不詳。豊章とも書き,また単に豊ともいう。660年の百済滅亡後,王族鬼室福信と僧の道琛らは周留城(錦江河口付近)を拠点に百済復興をはかり,当時日本に人質となっていた豊璋を迎えて王に立てた。多くの残存勢力がこれに呼応し,泗沘(しひ)城(扶余)などに駐屯する唐軍を包囲して唐・新羅軍を苦しめた。しかし内紛から福信は道琛を殺し,その福信も豊璋に殺され,復興軍の勢力は弱まった。豊璋は高句麗,日本に救援を求めたが,663年,唐・新羅軍の総攻撃の前に周留城は陥落し,豊璋も逃亡して百済復興運動は挫折した。このとき復興軍救援にむかった日本軍が敗れた白村江の戦は,日本史上著名な事件である。
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「豊璋」の解説

豊璋 ほうしょう

余豊璋(よ-ほうしょう)

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の豊璋の言及

【鬼室福信】より

…福信は660年僧道琛とともに任存城(大興)で挙兵,旧都泗沘(しひ)城(扶余)奪回を図った。同年日本の朝廷へ救援軍の派遣と,人質となっていた王子豊璋の送還を要請した。661年8~9月救援軍が派遣され,豊璋と軍需物資は周留城(錦江下流域)に拠った福信のもとへ送り届けられた。…

【白村江の戦】より

…戦争は2日にわたって行われたが,河口の岸上に陣を張った百済軍は文武王のひきいる新羅軍に打ち破られ,日本軍は海上で蘇定方のひきいる唐軍に敗北した。このため,周留城にたてこもっていた豊璋のひきいる百済復興軍も崩壊した。この戦いは,660年,百済が唐の高宗と新羅の軍隊に滅ぼされて以後,百済復興を企図した鬼室福信,黒歯常之,僧道琛(どうちん)等が大和朝廷へ救援を求めてきたことに発端がある。…

※「豊璋」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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