白村江の戦(読み)はくそんこうのたたかい

百科事典マイペディア 「白村江の戦」の意味・わかりやすい解説

白村江の戦【はくそんこうのたたかい】

663年,日本がに敗れた海戦白村江(〈はくすきのえ〉とも)は朝鮮南西部の錦江(きんこう)河口付近の古名。かねてから百済(くだら)と争っていた新羅(しらぎ)は,高句麗(こうくり)と戦っていた唐と結び660年,ついに百済の都を占領,王らを捕虜としたので,百済の遺臣は日本に救援を求めた。大和朝廷は朝鮮南部の日本の権益を守るため,これに応じて大軍を派遣,斉明(さいめい)天皇中大兄(なかのおおえ)皇子らも北九州に本営を置いて指揮したが,天皇は病死。水軍は663年8月27・28両日の海戦で唐の水軍に挟撃(きょうげき)されて大打撃を受けたので,朝鮮からすべての兵を引き揚げ,内政に専心することになった。
→関連項目大野城金田城基肄城鞠智城鬼室集斯錦江遣新羅使防人高安城天智天皇屋島城

白村江の戦【はくすきのえのたたかい】

白村江(はくそんこう)の戦

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改訂新版 世界大百科事典 「白村江の戦」の意味・わかりやすい解説

白村江の戦 (はくそんこうのたたかい)

朝鮮南西部の錦江河口付近で663年,日本軍と百済復興軍とが唐・新羅の連合軍と交じえた戦い。白村江(〈はくすきのえ〉ともよむ)は錦江の古名。戦争は2日にわたって行われたが,河口の岸上に陣を張った百済軍は文武王のひきいる新羅軍に打ち破られ,日本軍は海上で蘇定方のひきいる唐軍に敗北した。このため,周留城にたてこもっていた豊璋のひきいる百済復興軍も崩壊した。この戦いは,660年,百済が唐の高宗と新羅の軍隊に滅ぼされて以後,百済復興を企図した鬼室福信,黒歯常之,僧道琛(どうちん)等が大和朝廷へ救援を求めてきたことに発端がある。当時,大和朝廷には百済王義慈の子豊璋が人質として来ており,鬼室福信らは大和朝廷の軍事援助を受けるとともに,唐軍に降服した義慈王と太子隆にかわって豊璋を百済王として迎えようとしたらしい。この要請にこたえた当時の日本は斉明天皇のもとで中大兄皇子が実権をにぎっていたが,643年に百済が洛東江沿岸の旧加羅諸国を新羅から奪い,644年には唐の太宗が高句麗遠征に踏み切るなど,当時の中国,朝鮮の激動から大和朝廷も大きな影響を受けていた。とくに百済が旧加羅諸国を占領したことは,それまで新羅に代納させてきた〈任那の調〉を百済に肩代りさせ,さらに646年にはこれを廃止して新羅から人質をとるという外交方針の転換を迫った。しかし,さらに660年,百済が唐と新羅軍に急襲され滅亡すると,大和朝廷は,それまで百済と新羅との対立を利用して両国から調貢を受け取ってきた外交の転換を余儀なくされた。大和朝廷ではこのような外交のいきづまりを,百済救援の要請にこたえることで打開しようとしたものと思われる。もちろん古くからの百済との友好関係も一因をなしたかも知れないが,いずれにせよ6世紀以来の大和朝廷の対朝鮮外交はこの白村江の戦をもって終止符が打たれたのである。
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山川 日本史小辞典 改訂新版 「白村江の戦」の解説

白村江の戦
はくそんこうのたたかい

「はくすきのえのたたかい」とも。663年8月,韓国南西部の白村江下流で唐・新羅(しらぎ)軍と百済(くだら)・日本軍との間で戦われた戦争。660年,唐・新羅は連合して百済を攻め滅ぼしたが,鬼室福信(きしつふくしん)を中心とする百済復興軍は日本から王子豊璋(ほうしょう)をよびもどして王に擁立。豊璋はのちに福信を斬殺したが,百済の故地に留まる唐将劉仁願(りゅうじんがん)は窮地に立たされ,唐の高宗に増援軍を要請した。これをうけて高宗が派遣した劉仁軌(じんき)を将軍とする水軍は,百済復興軍救援にむかった日本の水軍と白村江河口付近で船上戦を展開して壊滅させた。一方,白村江の岸上では文武王に率いられた新羅軍に百済・日本軍が敗れた。この結果,百済復興の動きは崩壊し,豊璋王は高句麗に逃走。この戦は,東北アジアに唐を中心とする国際秩序を構築しようとする唐と,百済との歴年の友好関係をもとに百済を従属させたかたちで国際的地位を主張する日本の対戦であった。敗戦の結果,4世紀以来の日本と百済との連盟は消滅し,日本は朝鮮での足場を失うこととなった。その後,日本国内では対外防備用の山城が多く築かれ,また律令国家への歩みが本格化した。


白村江の戦
はくすきのえのたたかい

白村江の戦(はくそんこうのたたかい)

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世界大百科事典(旧版)内の白村江の戦の言及

【飛鳥時代】より

…そのころ東アジアの情勢は緊迫し,新羅は唐と連合して百済を攻め滅ぼしたが,百済はなお抵抗して日本に援助を求めた。斉明天皇はこれに応ずるため兵を率いて筑紫に西下したが病死し,また救援軍は663年(天智2)の白村江(はくそんこう)の戦に敗れたため,日本は朝鮮半島から完全に撤退することとなった。中大兄皇子は対馬・壱岐・筑紫に烽(とぶひ)や防人(さきもり)を置き,水城や大野城・基肄(きい)城を築いて大宰府の防備を固めるとともに,瀬戸内海の要衝にも城を築いて唐・新羅の来攻に備えたが,また都を大和から近江大津宮に移して天智天皇として正式に即位し,近江令の制定や庚午年籍(こうごねんじやく)の作成など内政の推進にも意をそそいだ。…

【郭務悰】より

…朝散大夫,上柱国。663年の白村江の戦の後,翌年旧百済領占領軍の鎮将劉仁願の命により百済人禰軍らとともに戦後処理の交渉のため来日,表函と献物を進める。朝廷は郭務悰を鎮将の私使と認めて大宰府で交渉させ,入京を許さなかった。…

【豊璋】より

…豊璋は高句麗,日本に救援を求めたが,663年,唐・新羅軍の総攻撃の前に周留城は陥落し,豊璋も逃亡して百済復興運動は挫折した。このとき復興軍救援にむかった日本軍が敗れた白村江の戦は,日本史上著名な事件である。【木村 誠】。…

※「白村江の戦」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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