木村(読み)キムラ

デジタル大辞泉 「木村」の意味・読み・例文・類語

きむら【木村】

姓氏の一。
[補説]「木村」姓の人物
木村伊兵衛きむらいへえ
木村毅きむらき
木村謹治きむらきんじ
木村蒹葭堂きむらけんかどう
木村重成きむらしげなり
木村庄之助きむらしょうのすけ
木村荘八きむらしょうはち
木村荘十きむらそうじゅう
木村泰賢きむらたいけん
木村栄きむらひさし
木村秀政きむらひでまさ
木村正辞きむらまさこと
木村資生きむらもとお
木村義雄きむらよしお

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精選版 日本国語大辞典 「木村」の意味・読み・例文・類語

きむら【木村】

  1. 姓氏の一つ。

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日本歴史地名大系 「木村」の解説

木村
いばらきむら

[現在地名]茨木市上泉かみいずみ町・片桐かたぎり町・ほん町・もと町・大手おおて町・新庄しんじよう町・東宮とうぐう町・大住おおすみ町・宮元みやもと町・竹橋たけはし町・永代えいだい町・別院べついん町・末広すえひろ町・双葉ふたば町・舟木ふなき町・稲葉いなば町・主原あるじはら町・戸伏とぶし町・中津なかつ町・園田そのだ町・大池おおいけ一丁目・駅前えきまえ四丁目・東中条ひがしちゆうじよう町・小川おがわ町・東奈良ひがしなら一丁目・水尾みずお一丁目・しよう一丁目・西河原にしがわら一丁目・田中たなか

茨木川左岸から安威あい川右岸付近に及ぶ平地の村。亀山街道から分岐して高槻たかつき城下(現高槻市)に至る高槻街道が村の中央を通り、街道沿いに集落を形成。島下しましも郡に属し、「日本霊異記」上巻第二七話に「島下郡味木里」とある味木をウマキ―ウマラキと読み、当地にあてる説がある。「御伽草子」に、大江山酒呑童子の配下にあって、渡辺綱に腕を切落されたとされる茨木童子は、茨木村に捨てられたところを酒呑童子に拾われ、その地名を名としたという(摂陽群談)。村名は正治二年(一二〇〇)一一月三日付の神国正田地売券(勝尾寺文書)に「合壱段者 在島下郡中条茨木村四条七里六坪西二反カ次目領家円教寺」とみえる。また弘長二年(一二六二)一一月晦日付の紀光永田地売券(同文書)に「茨木公田也」とあり、茨木村は当時国衙領であったようである。この時に売却された茨木村の田一反の四至に「東限新庄領」とあり、現新庄町のこととも考えられる。「略安宝集」(内閣文庫蔵大乗院文書)に南都興福寺領新庄庄がみえるが詳細は不明。総持寺散在所領取帳写(常称寺文書)の文安二年(一四四五)正月一七日請取分によると、茨木村内のよこ山・かな田・一六・せうきやう・ふちノ木などに総持そうじ寺領があった。なお勝尾かつお(現箕面市)草創に関する最も古い伝承を記した寛元元年(一二四三)五月二一日の奥書をもつ沙弥心空筆勝尾寺古流記(勝尾寺文書)に、光仁天皇施入七ヵ村の一として「蕀切」がみえ、室町時代初期頃の勝尾寺田畠目録(同文書)にも「切」の地名があり、いずれも茨木村のことと考えられる。



きつじむら

[現在地名]右京区花園はなぞの町・春日かすが町・木辻北きつじきた町・木辻南きつじみなみ町・車道くるまみち町・坤南こんなん町・艮北こんぼく町・巽南そんなん町・鷹司たかつかさ町・中御門なかみかど町・馬代ばだい町・八ッ口やつくち町・やぶした町〉

東は西京にしのきよう(現中京区)及び大将軍だいしようぐん(現北区)、西は妙心みようしん寺域及び法金剛院ほうこんごういん村、南は安井やすい、北は龍安寺門前りようあんじもんぜんの各村と接する。西境に宇多うた川が流れる。

平安京の条坊では右京一条四坊の東側、一条三坊の西側、二条四坊・二条三坊の一部及び北辺三坊・四坊の一部にあたる。村中央部を木辻大路きつじおおじ(現木辻通)が南北に通る。村の東境(現花園馬代町)を南北に馬代小路ばだいこうじ(現馬代通)、木辻大路と馬代小路の中央を恵止利えとり小路が、村西側を菖蒲あやめ小路が通る。


木村
きむら

[現在地名]福知山市字天田あまだ駅前えきまえ町・昭和しようわ町・末広すえひろ

由良川の中流、福知山城下の西隣にあり、南は南岡みなみおか村・笹尾さそお村、西はあつ村、北は和久市わくのいち村に接する。当村から厚村・和久市村にかけては低地帯で、洪水の時には最も早く浸水する所である。古代は「和名抄」の宗部そかべ郷の地。

「丹波志」によると、近世初期には由良川が東方からこの辺りに流れ、厚村で北へ流路を変えていたが、明智光秀が城下町形成の際、流路を変え、その堤防の陰にあたる所に敷地を求めたという。同書は福知山について「元木村・南岡村ノ地也、明智光秀改城シテ福智山ト名ル也」と述べる。すなわち、城郭は南岡村の北部の丘陵(当時横山といった)を中心に、城下町はその北側の木村のうちに建設されたものである。なお、近世初期に木村から和久市村にかけた地域を曾我井そがい村と称した(明治二二年以後の曾我井村とは範囲を異にする)。「横山硯」は、光秀の頃、江賀えが八幡宮があって、その「産地子うじこ 曾我井村・和久市村」とし、「丹波志」にも同様の記載がある。


木村
くしきむら

[現在地名]鳴門市北灘町櫛木きたなだちようくしき

どう浦の南西にあり、北灘八ヵ村の東端を占める。北の海岸部は播磨灘に面し、中央部をほぼ北に流れる櫛木川の両岸に狭い平野が開ける。北灘道が東部明神あきのかみ村から明神あけのかみ川沿いに入り、北上して海岸部に出たのち西に進む。櫛木川を南にさかのぼり、阿讃あさん山脈の峠を越えて大谷おおたに村に至る道も通る。慶長二年(一五九七)の分限帳に櫛木とみえ、九八石余が益田内膳丞の知行分。正保国絵図にも櫛木村九八石余とあるので、全村が益田氏の給知であったとみられる。寛文四年(一六六四)郷村高辻帳では田五五石余・畠四三石余、芝山の注記がある。天和二年(一六八二)の蔵入高村付帳では五四三石余が蔵入地。文化一〇年(一八一三)の高都帳では高六四三石余。「阿波志」では土田は上等、陸田一〇分の三・水田一〇分の七、反別四七町歩、家数九七。天保九年(一八三八)の北灘撫養田畠高物成調子帳(藤倉家文書)によれば、高六四八石余のうち一八石余(一町七反余)は荒地、残り六二九石余(六四町二反余)のうち九八石余(一〇町余)は古田高、五三一石余(五四町二反余)は古田出目と新田高。


木村
きむら

[現在地名]都賀町木

原宿はらじゆく村の西に位置し、中央部を赤津あかづ川が南流する。北は大橋おおはし村、南西は仲方なかがた(現栃木市)。史料上は東木ひがしき村・西木村に分れて記されることもある。「性霊集」の「沙門勝道歴山水玄珠碑并序」に「又建立華厳精舎於都賀郡城山」とみえる山は当地とされ、華厳けごん寺の跡という寺院跡が出井いでい山東麓にある。正和五年(一三一六)九月日の常行堂三昧田注文案(輪王寺文書)に木村とみえ、常行堂の三昧田一町(上執事分)があった。応永六年(一三九九)一二月日の島津道祐等言上状(島津文書)には「木村保長方村」とある。長方村は仲方村と思われるが、同文書によれば島津氏の譜代相続地であったものの一時支配を離れ、永徳二年(一三八二)三月に小山義政の乱の勲功の賞として還補された。


木村
かずらぎむら

[現在地名]甲南町葛木

寺庄てらしよう村の北、そま川と佐治さじ川の合流点右岸に位置。村の北半は丘陵で、集落と田地は南半に所在。延文五年(一三六〇)南朝方の仁木義長が陣取ったという葛木山は当地のことといわれる。慶長五年(一六〇〇)幕府領、元禄一一年(一六九八)山上藩領となる。寛永石高帳では高七三六石余。慶安二年書上では田三六〇石余・畑屋敷五二石余・永荒三二三石余。延宝七年(一六七九)の検地帳(葛木共有文書)では田四二町余・五八一石余、畑五町余・五二石余、屋敷一町余・一一石余。元禄一六年の新開検地帳によると、田畑合せて二町三反余が開発されている。草山が二八町余あり、文政一三年(一八三〇)村持の山を初めて割山にしている。


木村
かつらぎむら

[現在地名]大分市葛木

乙津おとづ川左岸の台地上に位置し、北は小池原こいけばる村など、西は猪野いの村。葛城村とも記した。慶長六年(一六〇一)から臼杵藩領で、同九年(同七年ともいう)当村のうち一〇〇石が徳川家康から御石火矢鋳宗覚に与えられた。宗覚分は寛文四年(一六六四)幕府領になったと考えられ(「譜牒余録」内閣文庫蔵)、正徳二年(一七一二)日向延岡藩領となる。別に二三石余が一七世紀前半と考えられるが岡藩領となり、臼杵藩・岡藩・延岡藩の相給地として明治に至る。臼杵藩領分は慶長一一年の惣御高頭御帳によると高一四八石余。正保二年(一六四五)の稲葉能登守知行高付帳では田高四二石余・畑高一〇五石余。


木村
きむら

[現在地名]蒲生町木村

川合かわい村の西、平野部に位置し、北は上羽田かみはねだ(現八日市市)。「吾妻鑑」にその名が散見する佐々木成綱は「蒲生郡志」などによれば古代佐々貴氏の流れをくみ、のち木村源三刑部丞を名乗っているが、当地との関連を指摘する説もある。寛永石高帳では高五八七石余、正保郷帳では下総古河藩領四七八石余・旗本高井領一〇九石余。高井氏領分は同領で幕末に至る。古河藩領分はのち幕府領となり、延宝八年(一六八〇)下小房しもおぶさ村の一部などともに甲斐甲府藩領となり、丹波福知山藩領で幕末を迎えるまでの領主変遷は下小房村と同じ。


木村
いばらきむら

[現在地名]日高町木、御坊市

薬師谷やくしだに山の南、平野部にある。北西は萩原はぎわら村、東は上富安かみとみやす(現御坊市)。「続風土記」は村名由来を「熊野往還なりありし地を墾きて村居せしより此名あるならん」と記す。慶長検地高目録によれば村高六八八石余、小物成一・五九八石。延宝六年(一六七八)の「日高鑑」では高六九一石余、田畑六〇町二反余、家数一三一で内訳は本役五〇・半役二八・無役四六・桶屋二・庄屋一・年寄三・ありき一、人数四八三、牛四七、馬一九。


木村
きむら

[現在地名]流山市木・南流山みなみながれやま六―八丁目

流山村の南、江戸川沿いの低地に位置し、南は七右衛門しちえもん新田(現松戸市)、南東は大谷口おおやぐち新田(現同上)。明治四年(一八七一)の村絵図(松戸市立図書館蔵)によると江戸川に沿って本囲堤が南北に築かれ、その堤道の東側に人家が並んでいた。江戸時代を通じて幕府領であったと考えられる。寛永一五年(一六三八)の八木拾九ヶ村入会申定(吉野家文書)に村名がみえ、元禄一三年(一七〇〇)の下総国各村級分では高二九七石余。「流山町誌」によると寛永三年に検地を受けている。寛文一二年(一六七二)には当村を含む八木やぎ一九ヵ村は入会地相之野(相野)の新田開発について、馬草場を守るため開発反対の訴訟をすること、開発を命ぜられたなら自分たちが請負うこと、原のままなら夫銭を支払うことなどを取決めた(吉野家文書)


木村
きむら

[現在地名]但東町木村

唐川からかわ村の北東、太田おおた川の流域に位置する。集落は同川の右岸を走る出石・宮津道(丹後道)に沿って発達。近世の領主の変遷は口矢根くちやね村に同じ。寛永一六年(一六三九)の田畑地改帳(太田家文書)では高三三九石余、正保(一六四四―四八)頃成立の国絵図に村名がみえ、高三三三石余。宝暦六年(一七五六)には小物成として茶代米一斗余・山手米一石三斗余、刈畑役の小豆二斗・粟六斗・稗五斗、桑代の真綿三貫四四八匁ほかを上納していた(同文書)。延享三年(一七四六)の家数四六・人数一八七、牛一五(「指出帳」同文書)。養蚕・製糸が盛んで、当地の太田家に残される安政二年(一八五五)矢根組六ヵ村が翌三年の絹糸・繭の生産予定高を生野いくの代官所(現生野町)に報告した際の書上によると、当村の予定は絹糸三〇抱(一抱二〇〇匁)・繭六〇貫目であった。


木村
きむら

[現在地名]郡山市西田町木村にしたまちきむら

三丁目さんちようめ村の南、阿武隈川中流右岸の丘陵に立地。永禄一一年(一五六八)七月吉日の熊野山新宮年貢帳(青山文書)に「一町 七百文 木村」とあり、紀州熊野速玉はやたま社に年貢七〇〇文を納めていた。天正一四年(一五八六)一〇月一三日の熊野山新宮年貢帳(同文書)には「一町 六百九十文 木村」とある。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では高一千九九石余、左馬助の知行地。


木村
きむら

[現在地名]加古川市加古川町木村かこがわちようきむら

加古川村の南、加古川下流域左岸に位置する。観応元年(一三五〇)一二月五日、赤松範資五箇ごか庄内の木村などを安堵されている(「足利尊氏袖判下文案」森川文書)。宝暦七年(一七五七)の村明細帳(糟谷家文書)には古くは紀伊きい村と称したと記される。慶長国絵図に村名がみえ、正保郷帳によると田方六〇九石余・畑方四一石余、ほかに金剛こんごう(現廃寺)領高六石余。寛延三年(一七五〇)の村明細帳(古家家文書)によると家数九九(本百姓六五・水呑三四)、人数五九〇。酒屋一、農間の綿繰屋八・蚕種商五(毎年丹波・丹後・但馬へ商売に赴く)、牛二四。真言宗金剛寺・如意によい(現高野山真言宗如意寺)正一位泊しよういちいとまり大明神(現泊神社)


木村
ならのきむら

[現在地名]小山市楢木

東をおもい川が南流し、その右岸堤防上に集落がある。寒川さむかわ郡に属する。北は馬場ばば村・網戸あじと村に接する平坦地。年未詳七月二三日の古河公方足利政氏安堵状(小山文書)に「楢木郷」とみえ、小山成長に当地などを安堵している。弘治三年(一五五七)六月一七日の足利義氏朱印状(野田家文書)によれば、義氏は「馬場・奈良木両郷」を野田左衛門大夫に宛行っている。さらに喜連川家料所記(喜連川文書)によれば楢木郷は永禄三年(一五六〇)まで野田氏が知行していたが、小山氏に押領された。ちなみに年未詳一二月二九日の小山高朝定書写(晃程文書)には「寒河郡十二郷之内ならの木郷」とみえる。近世を通して下総古河藩領。


木村
するきむら

[現在地名]御荘町菊川きくかわ

西方と南方を内海うちうみの入江と御荘湾に囲まれる山間部に立地する。北はかしわ(現内海村)、南東は平山ひらやま浦に接する。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の宇和郡の項に「摺木村 深山つつき、日損所」と村名がみえる。干害を受けやすいとしているが、「墅截」によると灌漑水路が引かれ築池も行われており、水掛りは「吉」となっている。宝暦三年(一七五三)菊川村と改名された。理由は当村に火災が多く、摺木の名が火を呼びやすいので菊川としたと伝えられる。宇和島藩領。

太閤検地の石高は二五七石六斗四升四合で、耕地の比率は田九六パーセント、畑四パーセント。


木村
きむら

[現在地名]富津市更和さらわ

数馬かずま村の東に位置し、みなと川が流れる。正保国絵図に村名がみえ、高三二〇石。寛文四年(一六六四)当時佐貫藩領であった(「松平忠勝領知目録」寛文朱印留)元禄郷帳では高三三八石余で、幕末まで変わらない。宝永七年(一七一〇)から再び佐貫藩領で、幕末に至る。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では家数四四。享保一一年(一七二六)以後に湊村への助郷役を負担するようになったが(「黒坂日記」富津市史)、文化八年(一八一一)松平定信によるたけおか台場および陣場の普請に伴う人足の割当と、当時の助郷の増大が難渋として争論になっており(三浦家文書)、嘉永五年(一八五二)には助郷負担による村方困窮として高二五石が免除されている(椙山家文書)



きつじむら

[現在地名]奈良市西木辻町

木辻町西方に所在。「春日社記録」中臣祐賢記の文永六年(一二六九)五月二六日条に「木通寺郷民為小五月参社」、同弘安三年(一二八〇)五月六日条にも「恒例郷民小五月若宮へ参天遊(中略)木辻子」とみえ、小五月こさつき郷に属した。「大乗院雑事記」文明一八年(一四八六)四月一四日条には木辻郷は小五月寄郷であるが、近来住人がなくなって小五月銭徴収もできなかったところ、近日家が建ち始めたので銭をかけたが、瓦堂かわらどう郷内の家であると称して応じなかったとある。


木村
たくぎむら

[現在地名]都万村蛸木

津戸つど村の南東に位置し、三方を海に囲まれる。至徳四年(一三八七)頃の高田大明神青表紙縁起(高田神社蔵)に蛸来とみえ、代官黒見与阿弥陀仏とある。正保国絵図に村名がみえる。貞享五年(一六八八)の「増補隠州記」によれば、田五三石余・五町五反余、畑五石余・三町九反余。小物成は竈役面判銀(以下断りのない限り同銀)二八匁・漁請役一四六匁七分・和布二束役四分・鯖三八刺役五匁三分・大鯛一三枚役三匁二分余・鯣一三連役三匁二分余・鰤一一本役一三匁二分・牛皮一枚役二匁五分、家数四一(百姓三一・間脇一〇)のうち御役目屋敷二八、人数一九六、牛二四・馬五。


木村
くしぎむら

[現在地名]夜須町櫛木

現夜須町域の東端、三箇山さんがやま村の東にあり、北は穂波ほなみ弥山ややま(現筑穂町)。三箇山北麓の山間部に位置し、当村を源流とした曾根田そねだ川・三箇山川が流れる。三箇山村の枝村であったが(天保郷帳など)、明治初年一村となった。領主の変遷は下高場しもたかば村に同じ。文政元年(一八一八)の年貢は米一七五俵・大豆二三俵(「夜須郡御物成帳」秋月黒田家文書)


木村
きむら

[現在地名]岡山市下中野しもなかの大元おおもと二丁目

下中野村の東にあり、南は新保しんぼう村、北は西古松にしふるまつ村。寛永備前国絵図に村名がみえ、高二九七石余。「備陽記」によると田畑一八町九反余、家数二二・人数九七。文化年間の「岡山藩領手鑑」では直高四九三石余、蔵入と家臣五名の給地。田高三〇一石余・畑高三〇石余、家数二一、うち一七軒は城下二日市ふつかいち町の日蓮宗妙勝みようしよう寺、残り四軒は米倉よねぐら村の臨済宗常慶じようけい寺檀家、人数八〇、牛七、樋二、橋二〇、肥船六がある。


木村
するぎむら

[現在地名]玉川町摺木

現玉川町の北端の山村。南北に長く、与和木よわぎ村から流れる重茂じゆうも川と、鍋地なべじ村から流れるかつら川の合流点付近のみが平地で、そこに集落がある。東は法界寺ほうかいじ村、西は与和木村、北は野間のま神宮かんのみや(現今治市)にいずれも山稜で接する。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の越智郡の項に「摺木村 日損所、小川・野山有」とみえ、村高六〇石と記す。


木村
ひいらぎむら

[現在地名]山東町柊木

柿坪かきつぼ村の南西、与布土ようど川の下流右岸に位置する。正保(一六四四―四八)頃成立の国絵図に村名がみえ、高一七〇石余。元禄郷帳には別に「柊木出作」が記載される。宝暦七年(一七五七)の但馬国高一紙でも高一七〇石余とあり、出作分は高一六石余。同年の家数三七・人数一七五(仙石家文書)


木村
かずらきむら

[現在地名]立田村葛木

木曾川沿いの水郷農村。東は戸倉とくら村、南は後江ひつえ村、西は木曾川を隔てて濃州の森下もりした(現岐阜県)、北は木曾川沿い塩田しおた(現八開村)に通ずる大村。「徇行記」によれば、概高一千三七〇石余はすべて蔵入地。田は三八町二反四畝余、畑は三一町五反五畝余。「寛文覚書」に戸数一一五、人数七三四とある。


木村
ならのきむら

[現在地名]西条市楢ノ木

石鎚いしづち山脈に発する加茂かも川と中山なかやま川のほぼ中間に位置する平地村。「予陽河野家譜」の天正一三年(一五八五)の項に「隆景進軍攻高峠(中略)城兵(中略)各成同死之約、出張于楢木、陣于野市原矣」とある。

正保二年(一六四五)氷見ひみ村より、二八六石余の村高で分村、寛文元年(一六六一)楢木村・坂元村に分立。


木村
うつぼぎむら

[現在地名]厳木町大字

厳木川の左岸、厳木村の西にある小村。

木を「うつぼぎ」と読むについては、定説はない。うつぼ木とは幹の空洞(うつろノうど)になっている老樹で、神霊の宿る霊木と説明される。


木村
きむら

[現在地名]美浦村木

定光じようこう村の北西に位置する小村。集落の周りには、室町時代につくられたと推測される堀がめぐらされている。中世は信太しだ庄に属し、江戸時代は旗本領で、元禄郷帳の村高は九四石余。幕末は旗本安部氏が支配した。明治九年(一八七六)四月の常陸国信太郡木村地引簿(木村芳雄氏蔵)によれば、田は六町四段七歩、畑一二町三段七畝三歩、宅地一町八段一畝五歩、山林一町七段七畝一一歩、萱生地八段三畝二一歩、やぶ地一畝一六歩、墓地六畝六歩。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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