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赤橋久時 あかはし ひさとき

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

赤橋久時 あかはし-ひさとき

1272-1307 鎌倉時代の武将。
文永9年生まれ。赤橋義宗(よしむね)の子。河内(かわち),摂津などの守護をつとめ,正応(しょうおう)6年六波羅(ろくはら)探題北方となる。のち評定衆,引付頭人(ひきつけとうにん)をへて嘉元(かげん)2年寄合衆兼官途奉行(かんとぶぎょう)。「新後撰和歌集」「玉葉和歌集」などに和歌がおさめられている。徳治(とくじ)2年11月28日死去。36歳。通称は陸奥彦三郎。法名は因憲。

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書籍版「講談社 日本人名大辞典」をベースに、項目の追加・修正を加えたデジタルコンテンツです。この内容は2015年9月に更新作業を行った時点での情報です。時間の経過に伴い内容が異なっている場合がございます。

朝日日本歴史人物事典の解説

赤橋久時

没年:徳治2.11.28(1307.12.23)
生年:文永9(1272)
鎌倉後期の武将。赤橋流(赤橋と号した北条長時の子孫)の北条義宗の子。陸奥彦三郎と称した。弘安3(1280)年ごろには河内(大阪府),摂津(大阪府・兵庫県),信濃(長野県),紀伊(和歌山県),日向(宮崎県)の守護を兼ねる。正応1(1288)年右馬助,従五位下。永仁1(1293)年六波羅探題北方となって上洛。同3年越後守に任じ,同5年六波羅を辞して鎌倉に帰り,翌年鎌倉幕府の評定衆となった。正安3(1301)年一番引付頭。嘉元2(1304)年寄合衆(幕政会議である寄合の構成員)兼官途奉行となって幕政の中枢に参画し,武蔵守に任じたが,徳治2(1307)年3月出家,法名は因憲。

(新田英治)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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