朝日日本歴史人物事典 「赤橋久時」の解説
赤橋久時
生年:文永9(1272)
鎌倉後期の武将。赤橋流(赤橋と号した北条長時の子孫)の北条義宗の子。陸奥彦三郎と称した。弘安3(1280)年ごろには河内(大阪府),摂津(大阪府・兵庫県),信濃(長野県),紀伊(和歌山県),日向(宮崎県)の守護を兼ねる。正応1(1288)年右馬助,従五位下。永仁1(1293)年六波羅探題北方となって上洛。同3年越後守に任じ,同5年六波羅を辞して鎌倉に帰り,翌年鎌倉幕府の評定衆となった。正安3(1301)年一番引付頭。嘉元2(1304)年寄合衆(幕政会議である寄合の構成員)兼官途奉行となって幕政の中枢に参画し,武蔵守に任じたが,徳治2(1307)年3月出家,法名は因憲。
(新田英治)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報