ヘンリー2世からリチャード2世に至る8代245年に及ぶイングランドの王朝。1154-1399年。王朝名はヘンリー2世の父アンジュー伯ジョフロアが冑に常時挿していたエニシダのラテン名planta genistaに由来する。別にアンジューAnjou朝ともいう。イングランド中世のほぼ全時代を支配したが,14世紀初頭のエドワード1世の治世の終りをもって前期と後期に分けられる。
プランタジネット朝はスティーブン王の内乱時代の後をうけてヘンリー2世(在位1154-89)の即位とともに始まるが,彼は父方よりアンジュー,メーヌ,トゥーレーヌを,母方よりノルマンディーを,また王妃エレアノール(もとフランスのルイ7世の王妃)よりアキテーヌを得て広大な〈アンジュー帝国〉の主君たる地位を占めた。帝国の政治的・文化的中心は大陸にあり,イングランドはその辺境にあってアンジュー家に王位と,また主君が大陸で活動するための人的・物的資源とを提供した。しかし大陸の所領はフランス王の家臣として領有していたので,ジョン(欠地)王(在位1199-1216)の時代に封建法違反を理由にアキテーヌ侯領を除くすべてを没収され,王座はイングランドに定まっていった。他方エドワード1世(在位1272-1307)はケルト人を主とするウェールズ,スコットランドを支配下におさめようとしたが,後者の征服は成らなかった。前期王朝下には近代に受け継がれるイングランド固有の国制が展開した。ヘンリー2世時代に各地域の州裁判集会と陪審制を伴う巡回裁判制が結びつけられて司法の統一が進み,ヘンリー3世(在位1216-72)時代には中央行政府のなかに財務府,尚書部のほか王座裁判所,人民訴訟裁判所が成立し,さらにエドワード1世時代には高位聖職者,有力貴族,各州の騎士と都市民の代表からなる身分制議会が招集されるようになった。この国制の展開は,しばしば大陸の所領回復を企てて費用調達を迫る国王とこれに反対して改革を唱える諸侯との対立と妥協を契機としている。〈マグナ・カルタ(大憲章)〉〈オックスフォード条項〉などの国王による認可がそれである。
またこの時代はローマ教皇権が強力となり,集権的統治をすすめる国王と対立した。〈教会の自由〉を主張してヘンリー2世と対立したカンタベリー大司教トマス・ベケットの支持者アレクサンデル3世,大司教ラングトンの就位に反対するジョン王を破門したインノケンティウス3世,聖職者への課税をめぐってエドワード1世と対立したボニファティウス8世らの教皇の,諸王の政治への影響力は強大であった。またこれらの教皇の直接保護下にあった改革派修道会は12世紀のシトー会や13世紀の托鉢修道会などイングランドの農村と都市に生産活動と教育の面で貢献した。農村人口は顕著に増加して各地に市場が成立し,流通と手工業の拠点の都市も発展したが,王権の強大性と秩序が維持されたため,大陸にみられる自治都市は成立しなかった。
14世紀全体にわたる後期プランタジネット朝のイングランドは全般に転換期に入る。まずエドワード2世(在位1307-26)時代から諸侯勢力が増大した。彼らはそれまで国王と彼の評議会がもっていた政治的な実権を諸侯会議に引き移して,課税,宣戦・講和,政府の人事など国政について協議を行う権利を得,さらにエドワード3世(在位1327-77)時代には〈貴族身分peers〉として他と区別するようになった。他方,前世紀に導入された直接税が財政的に重要性を増すと,政府は担税者たる地域住民の意思を直接に把握するため,州の代表(騎士)とのちには都市民の代表を頻繁に招集して課税同意を求めた。百年戦争の戦費調達がその必要性を高めた。こうして諸侯と,州および都市の代表(〈庶民commons〉)はそれぞれ一体となり,パーラメント(議会)は二院制の姿をとるようになった。
次に社会的な面では,前世紀以来イングランドは対岸の毛織物生産地フランドルに対して良質の羊毛供給国であったが,エドワード3世は羊毛輸出を制限し,大陸より技術者を招いて毛織物生産を育成し工業化の政策を行った。しかし14世紀中葉には黒死病が猛威をふるい,すでに進行しつつあった人口の減少傾向に拍車をかけ,労働者不足と賃金の高騰を招いた。そのため労働者を規制する諸制定法が公布され,またその執行のためにイギリス独自の治安判事制が成立するに至った。マナー制度はすでに解体に向かっていたが,おりしも1381年人頭税徴収を機にワット・タイラーの率いる大規模な農民一揆が発生し,彼らは多数の手工業者をも集めて労働者規制法に反対し農奴制廃止,取引の自由を主張して,領主館を襲撃し,マナーの記録集を焼却した。このころオックスフォード大学のウィクリフが教会の土地財産の蓄積を批判し,制度化されたローマ教会の改革を唱えて多くの共鳴者を得た。この運動を政治的に支援したのはエドワード3世の第4子ジョン・オブ・ゴーントであったが,彼の兄エドワード黒太子の子リチャード2世(在位1377-99)の治世に至って専制政治に傾いたため,ジョンの子ヘンリーが反対して彼を廃位し,ここにプランタジネット朝は終幕,ランカスター朝が始まった。
執筆者:佐藤 伊久男
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アンジュー伯ヘンリー(2世、在位1154~89)がイギリス王に即位して開いたイギリス王朝(1154~1399)。アンジュー朝ともいう。プランタジネットPlantagenetの名は、ヘンリー2世の父アンジュー伯ジェフリー(ジョフロア)がエニシダ(ラテン語プランタ・ゲニスタplanta genista)の小枝を冑(かぶと)に挿していたことに由来する。アンジュー、ノルマンディー地方のほかブルターニュ、アキテーヌ地方などフランスの西半分をも領土として一連の行政改革を行ったヘンリー2世に始まる。のち、十字軍遠征に出て長くイギリスを留守にしたリチャード1世(獅子(しし)心王、在位1189~99)、ガスコーニュを除く大陸領の大半を失い「マグナ・カルタ」に署名させられたジョン王(在位1199~1216)、シモン・ド・モンフォールら貴族の大反乱をみたヘンリー3世(在位1216~72)、一連の制定法を発布して封建社会を秩序づけたエドワード1世(在位1272~1307)、専制政治を批判され退位させられたエドワード2世(在位1307~27)、百年戦争を始めたエドワード3世(在位1327~77)、ワット・タイラーの農民一揆(いっき)を抑えたリチャード2世(在位1377~99)と続いた。その後のランカスター、ヨーク両朝はエドワード3世から出た分家である。
[富沢霊岸]
1154~1399
中世イングランドの王朝。ノルマン朝ののち,フランスのアンジュー伯がヘンリ2世として王朝を創始。家名はエニシダ(ラテン語でプランタ・ゲニスタ)の枝を家紋としたことに由来するという。その後リチャード1世,ジョン王,ヘンリ3世,エドワード1世,2世,3世をへて,14世紀末にリチャード2世をランカスター家のヘンリ(のちのヘンリ4世)が廃位し,王朝は終わった。なお,以後のランカスター家・ヨーク家の支配を後期プランタジネット時代という場合もある。
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…1154年,息子のアンリがイギリス国王ヘンリー2世として即位。ここにプランタジネット朝が創始され,アンジュー地方もイギリス領となった。1205年には,フランス王フィリップ・オーギュストがこの地方を制圧。…
… ウィリアム1世はフランスで行われていた封建制度を導入,全国的な検地(ドゥームズデー・ブック)やソールズベリーの誓いによって王権を強化したため,イングランドはフランスと異なる集権的封建国家となった。しかし12世紀半ばには王位をめぐる内乱(スティーブンの乱)がおこり,その結果,1154年フランスのアンジュー伯がヘンリー2世として即位し,プランタジネット朝を開いた。彼は相続や結婚などによりフランスの約1/2をも支配して,当時ヨーロッパで最大の領土を有する君主となった。…
…【大橋 広好】
[伝説]
エニシダはラテン語でゲニスタgenistaと呼ばれる。アンジュー公国のジョフロア伯がこれを兜に挿して戦った故事から,プランタジネット朝(Plantagenets,〈エニシダの木〉の意)の名が生まれたといわれる。同公国に関係した伝説では,ほかにフルク王子の物語があるが,これは,兄を殺して王位に就いた王子が良心の呵責(かしやく)に耐えかねエルサレムへ巡礼し,毎晩エニシダでみずからをむち打ったという話である。…
※「プランタジネット朝」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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