車力村
しやりきむら
[現在地名]車力村車力
屏風山砂丘の東の末端に位置する。東は山田川を隔てて下車力村に通じ、北は豊富村、南は牛潟村に接する。
鎌倉幕府御家人の柾子弾正が、安東氏を頼って当地に移って来たという伝説があり、天和三年(一六八三)の広須御新田所図に「まさこ村」とみえる。天保一四年(一八四三)の北沢家由緒書(西津軽郡史)に元禄年中(一六八八―一七〇四)初代の北沢吉兵衛が「広須新田開発相成候に付同年車力に引越田畑開発之上住居罷有候」とあり、二代吉十郎は「元禄六酉年高三十石御免引被下置開発取扱役車力村庄屋兼帯刀御免被仰付」とみえる。
車力村
しやりきむら
面積:六一・五一平方キロ
津軽平野の北西部にあり、西津軽郡の最も北に位置する。北に十三湖があり、北津軽郡市浦村に接し、東は岩木川と山田川の河口部にあたり、北津軽郡中里町と境をなす。南に田光沼・牛潟池・袴形池などの溜池や広い低湿地帯をかかえ、木造町と稲垣村に続き、西は南北に発達する屏風山砂丘とその外側の七里長浜で日本海に面している。
総面積の約二一パーセントが水田であるが、排水が悪く凶作飢饉の被害を最も強く受けた。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
Sponserd by 