小作争議(読み)こさくそうぎ

精選版 日本国語大辞典 「小作争議」の意味・読み・例文・類語

こさく‐そうぎ ‥サウギ【小作争議】

〘名〙 小作料その他小作関係について、地主と小作人の間に起こる争い事。大正末期から昭和初期にかけてしきりに起こった。
不在地主(1929)〈小林多喜二〉二「小作争議の時など、〈略〉一番先きに立って」

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デジタル大辞泉 「小作争議」の意味・読み・例文・類語

こさく‐そうぎ〔‐サウギ〕【小作争議】

小作人と地主との間に、小作料・耕作権などについて起こる紛争。大正から昭和初期にかけて激増した。

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改訂新版 世界大百科事典 「小作争議」の意味・わかりやすい解説

小作争議 (こさくそうぎ)

日本地主制のもとで,小作人を中心とする農民が小作条件改善と農民解放を目ざした闘争であり,直接には地主に対してたたかわれた。小作人の地主に対する闘争は,すでに明治末期ごろから不作などを理由に西日本で散発していた。しかし,小作争議が本格的に展開したのは,第1次世界大戦後の1920年から30年代においてであった。小作争議発生の経済的契機は,第1次世界大戦による好況が商業的農業と労働市場の展開を急速に促し,地主的土地所有と農民的小商品生産との矛盾対立を顕在化させたことにある。さらに政治的には,ロシア革命による社会主義思想の導入,米騒動の勃発(1918),労働運動の急速な発展,大正デモクラシー思想の普及等が,小作争議の展開に大きな影響力をもったのである。争議件数は,1920年の408件から21年1680件へ急増し,23年の1917件を経て26年には2751件と戦前の第1のピークをむかえた。その後,争議件数は一時減少するが,31年3419件,33年4000件,そして35年6824件と戦前最大のピークを築き,以後はふたたび減少に転ずるが,戦時下の41年に至るまで争議は3000件台を持続していた。このように,戦前日本の小作争議は1920年代(第1期)と昭和恐慌期(第2期)の二つの山をもっていたが,その内容は地域・形態ともにそれぞれ特徴をもって異なっていた。

(1)第1期 第1次世界大戦後,小作争議が本格的に展開した地域は近畿を中心とした西日本であったが,それは大戦を契機とする日本資本主義の急速な発展が,とりわけ西日本の農村に兼業機会と農民的小商品生産の展開を促したためであった。この資本主義市場との接触を通じて農民は自家労働の価値意識にめざめ,高率・高額な現物小作料や半封建的地主小作関係との矛盾をはじめて認識できたのである。農民は,農村周辺の雑業的日雇賃金や労働者の賃金と自己の収入を比較する機会をもつようになり,そのことによって自分の労働から得られるべき収入を換算する経済観念が発達した。第1期の小作争議で農民は要求を獲得するために,しばしば自己の経営収支書を地主側につきつけているのはこのような観念の発達によるものである。一方,都市での労働運動の高揚や米騒動も農民の自覚を高める契機となった。それゆえ,第1期の小作争議は,まず,岐阜,愛知,大阪,兵庫など大都市に近接した西日本の高生産力地帯で急速に燃え上がり,次いで,新潟,京都,奈良,岡山,香川,福岡といった比較的都市に近接した地域へと広がっていった。争議における要求は,小作側からの小作料引下げが中心であり,減額を獲得して経営的前進を図ろうとする小作攻勢的争議が主流をなした。

 第1期の争議1件当りの参加人数は,地主約15人,小作人約60人であり,関係耕地面積は40町歩前後と全体として規模が大きいことを特徴とした。争議主体は,経営規模の比較的大きい小作中農層であり,それに貧農を加えた幅広い層の参加がみられた。小作中農が争議の主軸となったのは,この層が農民的小商品生産への意欲をもっとも強く示し,それゆえ地主的土地所有との矛盾をもっとも鋭く認識する階層であったからにほかならない。彼らは,しばしば農民組合を組織して階級的に結集し,自己の要求を貫徹しようとした。1922年の日本農民組合日農)の設立は,このような小作人の動向を反映したものであるとともに,その後の農民組合の組織化を急速に推し進める契機となった。これに対し,地主側も地主組合を結成して小作人と対抗することが多かったが,西日本では地主の寄生化と不在化の傾向が早期に進んでいたため,地主側の抵抗力はそれだけ弱く,小作人に譲歩する場合が多かった。こうして闘われた第1期の小作争議では,しばしば大幅な小作料減額をかちとり,小作人はさらに進んで小作料の永久減額を要求するに至った。この永久減額要求は,1922年岡山県日農邑久・上道連合会が小作料永久3割減を要求したことに始まる。農民組合は,要求の根拠として水田1反当りの収支計算書を作成して地主側につきつけた。このような要求方法は,小作人の自己労働の価値を表現するものとして,その後各地の小作争議で使用されていった。岡山県藤田農場争議,大阪府山田村争議,佐賀県基山村争議,新潟県木崎村小作争議,香川県伏石事件などが第1期を代表する大規模な小作争議である。

 しかし,それまで守勢的だった地主は,26年ころから攻勢に転じ,明治民法に守られた土地所有権をたてに土地立入禁止,立毛差押えなどの戦術を駆使して農民組合に対抗した。また,28年の三・一五事件,翌29年の四・一六事件をはじめ天皇制権力による弾圧・規制は,とりわけ左翼的な農民組合の活動家に集中し,農民運動は困難な状況におかれた。一方,小作側でも,小作争議を通じて一定程度ではあれ小作条件が緩和されたこと,西日本では1920年代後半から昭和恐慌期にかけて,他地域と比べれば兼業機会に恵まれていたこと,米以外に蔬菜(そさい),果実,畜産物などの農民的小商品生産が発展し,それらは米や繭にくらべれば価格の下落が概して軽微であったこと,さらには政府,県が,小作争議対策として弾圧・規制を強化する一方,農民的小商品生産の発展を促進する農家小組合や産業組合の組織化を進め,農民の精農的エネルギーを引き出していったこと,これらの諸要因が重なり合うことにより,1920年代後半からの西日本での争議の沈潜化を進めていったのである。

(2)第2期 深刻な不況が長期化するなかで,小作争議件数はふたたび増加したが,その内容は第1期と大きく異なっていた。第1期の争議の中心が西日本であったのに対し,第2期になるとその中心はしだいに東日本の養蚕地帯,東北地方に移行した。秋田,山形,福島,宮城などの東北地方および山梨,長野,群馬,埼玉などの養蚕地方が第2期争議の中心地である。東北地方は,資本主義的後進地域に属するところとして,1920年代にはなお地主・小作の矛盾が顕現しなかったが,第2期になると,地主攻勢的な土地引上げという形での争議が多発した。それは,この東北地方が米単作的で農業生産力も低く,しかも地主・小作ともに土地への依存度が高いという条件のもとで,恐慌の打撃が鋭く地主・小作双方に加わり,とりわけ困難を深めた中小地主の土地取上げが小作農の生活を脅かすところから争議として激発したものであった。また養蚕地域は,東北地方と比べれば資本主義的市場が展開していたが,1920年代には養蚕収入や女工賃金がかえって高額高率小作料を補完する役割を果たし,そのことが地主・小作間の矛盾の顕在化を抑制する作用を果たした。しかし,昭和恐慌による蚕糸業破綻は養蚕収入や女工賃金をとだえさせることにより小作料の納入を困難にさせ,ここでも争議を激化させることになったのである。

 第2期の争議規模をみると,争議1件当り参加地主数約5人,参加小作人数約20人,関係耕地面積10~20町歩で,第1期と比べて明らかに小規模化した。中小地主の窮迫による自作化をあるいは土地売却要求を原因とした小規模な土地返還争議の激発,これが第2期の小作争議の特徴である。このような地主攻勢のなかで,小作貧農が争議主体として登場し地主に苛烈に抵抗したのもこの期の特徴であった。小作人のなかでももっとも窮乏化していた小作貧農は,恐慌のもとでわずかの兼業機会も奪われ,土地への執着度はいっそう強まった。その小作貧農がひとたび小作料減額を要求し,小作料を滞納すると,地主はすかさず土地返還を迫り,小作人の耕作権に対抗する手段に訴えた。それゆえこの期の争議は,小作人にとって,生産と生活の唯一の場である土地をめぐっての命がけの闘争であり,きわめて先鋭的な内容をもっていた。新潟県王番田争議,同和田村争議,栃木県阿久津争議,山梨県奥野田争議,長野県五加村争議,北海道雨竜蜂須賀争議,秋田県阿仁前田争議などがこの期の代表的争議であるが,深刻な恐慌を背景にきわめて激化した争議形態をとり,天皇制権力の弾圧も苛烈をきわめた。農民は,防衛的な争議を強いられるなかでも,要求を小作料減免から耕作権確立へとつき進め,地主的土地所有との対抗をより鋭いものとした。

 しかし,第1期に引き続きさらに強化された弾圧・規制は,中心的な農民組合活動家に集中して農民組合の活動を困難にした。また満州事変の勃発による排外主義の高揚は,農民運動の中にも右翼的潮流や国家主義的傾向を生み出し,左翼的農民運動の分裂・後退を余儀なくさせた。さらには,国家は1932年以降,時局匡救(きようきゆう)事業の一貫として農山漁村経済更生運動を大々的に展開し,生産力主義による農村の組織化を推し進めた。小作人は,対地主闘争を通じて経済的利益を獲得するのではなく,農家小組合や産業組合の機能の発揮により経済的利益を追求する方向へとしだいに一元化されていった。不況の長期化も農民諸階層の利害格差をおしひろげ,争議における小作人側の団結を弱めていった。このようななかで,小作争議はより小規模化し,散発的なものになっていったのである。かくして地主的土地所有という厚い壁は打ち破れなかったものの,小作争議は日本地主制の後退を確実に進め,農地改革実施の現実的基礎を準備したところに,大きな歴史的意義を見いだすことができよう。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「小作争議」の意味・わかりやすい解説

小作争議
こさくそうぎ

地主から土地を借りて農業を営む小作人が、小作料その他のことで地主と紛争を起こし争議となる事件。第二次世界大戦前における日本の農民運動の主要な形態であった。

[大島 清]

歴史

小作争議は、明治維新後、地主的土地所有が形成される過程で散発的に起こったが、全国的に発生し社会問題となったのは20世紀に入ってからである。日露戦争(1904~1905)のころになると地主的土地所有は強大となり、小作地面積は全国総耕地の45%を超え、地主の圧迫と小作料の重圧下に、小作人の窮乏は深まった。

 1907年(明治40)以降、各府県で相次いで米穀検査規則が施行され、地主は良質米を得るため、小作人に米の品質改良を強要したので、小作人の反発を招き、彼らはその代償として生産奨励金の交付や小作料の引下げを地主に要求し始めた。とくに第一次世界大戦後、1920年(大正9)に勃発(ぼっぱつ)した経済恐慌をきっかけに農民生活が悪化すると、小作争議は燎原(りょうげん)の火のごとく全国に広がった。すなわち、1917年には85件にすぎなかったものが、1920年には408件、1926年には2751件に激増、参加小作人の数は1926年に15万人を超えた。この1920年から1926年までが農民運動の第一次高揚期である。

 この期の争議の特徴点をあげると、(1)農民要求の中心は「小作料を減免せよ」で、彼らは積極的攻勢に出、(2)彼らの指導には主として日本農民組合(日農。1922年創立)があたり、(3)争議は比較的大規模で、なかには長期にわたるものがあり(たとえば岡山県藤田農場、新潟県木崎村、岐阜県山添村など)、(4)小作人側の勝利に終わるものが多かった。

 初めは守勢にたたされた地主階級は、1925年、大地主を中心に大日本地主協会を結成して小作側に対抗し、また小作調停法(1924)を活用して争議を法廷に持ち込み、国家権力を背景にその利益を守って争った。また地主のそそのかしで暴力団が争議に介入することもあり、他方、争議が過熱して小作人が地主宅を焼き打ちするなど騒擾(そうじょう)事件が起こることもあった。

 小作争議件数は大正末期に一時減少したが、昭和恐慌が始まるころからふたたび増加し、農民運動の第二次高揚期(1929~1935)を迎えた。この期の特徴は、(1)農民要求は「地主の土地取り上げ反対」「耕作権を守れ」「土地を農民へ」を中心とするようになり、地主の小作契約解除通告に対し、小作側は守勢にたって防戦し、(2)農民組合は全国農民組合(全農。1928年結成)が主力となり、(3)争議は小規模化し、法廷闘争が増え、(4)地主の攻勢と官憲の弾圧によって小作側の敗北に終わるものが多くなった。戦局が進むと、争議の合法性は奪われ、農民組合の解散が相次いだ。この期の代表的争議は、新潟県和田村、秋田県前田村、北海道雨竜(うりゅう)農場争議などである。

[大島 清]

原因

封建社会の農民に課せられた年貢(ねんぐ)の重みをそのまま引き継いだ半封建的地主階級は、土地を求める農民の必死の競争を利用して小作料の引上げを図り、農民を苦しめた。これに加えて、資本主義が発展し、農民から買い入れる農産物は買いたたき、売る物は価格をつり上げ、こうした不等価交換を通じて農民を収奪した。この窮状から脱出するため、農民は一方で経営技術を改善し生産力向上に努力したが、他方、彼らに直接に対立している地主の搾取に抵抗し、人間的解放を求めたのである。また、第一次世界大戦後、デモクラシーと社会主義の思想が農村にも波及し、労働運動家やキリスト教人道主義者あるいはマルクス主義者らの啓蒙(けいもう)活動にも影響されて、農民の間に階級的自覚が高まった。

 こういう時代の潮流のなかで、個人的な経営改善努力に満足せず、団結の力によって組織的に問題を解決しようとする階級意識が農民の間に強まっていった。このような社会的経済的な条件と農民の主体的成熟が一定の点に達したとき、不作と恐慌による急激な生活悪化がきっかけとなって、小作人は地主との闘争に立ち上がったのである。

[大島 清]

社会的影響

小作争議の結果、一般に小作料は20%前後低下し、争議地周辺の村にも程度の差はあれ影響は及んだ。農民生活はそれだけ改善され、逆に地主の経済状態は悪化した。しかし争議が敗北すると、小作人は土地を引き揚げられて困窮し、また争議指導者の検挙、投獄など弾圧による犠牲も大きかった。小作人を含む貧農大衆の生活は悲惨を極め、不作や恐慌になると馬も娘も土地までも売り、借金の高利に苦しんだ。そういう農民も、小作争議によって部分的ながら経済状態は改善され、地主に対する前近代的人間関係も民主化され、集落における農民の発言権も強くなった。そして従来は地主階級によって独占されていた村政も、農民の政治的進出によって制約されるようになった。長期にわたり農民組合員が村会議員の多数を占め、村長や助役などに就任して村政の主導権を握った群馬県強戸(ごうど)村(現太田市)の例はその典型であった。このように小作争議の波は地主的土地所有を後退させ、農村民主化を大きく前進させた。

[大島 清]

『農林省編『小作関係資料』全16巻(1979・御茶の水書房)』『農地制度資料集成編纂委員会編『農地制度資料集成 第2・3巻』(1969、1973・御茶の水書房)』『農民運動史研究会編『日本農民運動史』(1961 ・東洋経済新報社/再版・1977・御茶の水書房)』


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百科事典マイペディア 「小作争議」の意味・わかりやすい解説

小作争議【こさくそうぎ】

耕作権確立,小作料減額等を要求する小作人の地主に対する闘争。すでに幕末からみられるが,組織的な運動形態をとるのは明治30年代以後で,明治40年代には各地に続発。第1次大戦後の資本主義と地主制の矛盾や労働運動のたかまりに伴って本格化した。小作人側は小作組合・小作料不納同盟を組織し,共同耕作,デモなどの戦術を用い,労働者・無産政党とも提携,地主・官憲による弾圧に抵抗した。昭和初期には弾圧強化で一時弱まったが農村恐慌によりふたたび激化,1935年―1937年には年間6000件以上の争議が起きた。以後は戦時体制の中で衰退した。新潟県木崎村,香川県伏石,岡山県藤田村などの小作争議は著名。→木崎村小作争議
→関連項目石黒忠篤小作制度小作調停法自作農創設維持政策大日本生産党農民組合

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「小作争議」の解説

小作争議
こさくそうぎ

小作農による地主への争議の総称。農民組合や小作組合を組織としたものが多い。1922年(大正11)全国的組織の日本農民組合が結成され,24年に小作調停法が施行されるにおよんで争議が多発。26・27年(昭和元・2)を頂点とするものは,全国一の地主地帯である新潟県や西日本を中心として大規模な争議が多く,小作料の減額や小作条件の改善を実現した。昭和恐慌期を頂点とするものは,東日本を中心として地主の土地取上げに対する返還闘争の色合が濃くなり,小規模かつ防衛的なものに転換した。争議を指導すべき日本農民組合・全国農民組合も分裂し,小作側の敗北に終わるものが多かった。

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旺文社日本史事典 三訂版 「小作争議」の解説

小作争議
こさくそうぎ

明治時代以降の小作農民の地主への抵抗運動
明治初期以来寄生地主は農地を小作人に貸し,高額な小作料(多くは物納)を搾取した。それに対し第一次世界大戦後,農民組合が各地に結成され,小作料引下げを要求する争議が激化し,地主・警察と衝突した。1931年には全国で6800余件にものぼったが,第二次世界大戦後の農地改革によって寄生地主制が解体され,小作争議もほとんどなくなった。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「小作争議」の意味・わかりやすい解説

小作争議
こさくそうぎ
tenant farmer dispute

地主と小作農との間の小作料,耕作権などの小作関係をめぐる紛争のこと。小作争議はその国の歴史や社会的事情の違いによって,それぞれ性質や内容を異にしている。日本の小作争議は 1920年代に頻発したが,小作料などの単なる経済的利害関係にかかわる紛争というよりは,むしろ農民に対する地主のなかば封建的な経済的搾取と身分的束縛からの解放という社会問題的色彩が強かった。

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世界大百科事典(旧版)内の小作争議の言及

【太平洋戦争】より

…労働争議の大半は,自然発生的な厭戦感情に基づく無意識的・無自覚的なものであったが,なかには労務管理の拙劣さから生まれた集団暴行事件,〈オシャカ〉と呼ばれる不良品をひそかにつくる〈オシャカ闘争〉などもあった。 小作争議件数は,1941年3308件,42年2756件,43年2424件,44年2160件と漸減はしたもののかなりの高水準を維持し,争議に参加した小作人総数は9万1425名であったが,小作争議の大半は自然発生的かつ小規模な個別争議であった。小作争議の新たな原因としては,食糧事情の悪化や地主の帰村による小作地の取上げ,軍需工場の地方分散にともなう農地転売のための地主からの小作契約解除の申入れなどがあり,小作農民側は,小作統制令に基づく小作料減額の積極的要求や兼業収入の増加分による小作地買取り要求などで地主に対抗した。…

【日本資本主義】より

…それに対応して政府の労働政策も,労働組合を事実上公認してそれを取り締まる方向に転換してくるが,治安警察法の改正と同時に制定された労働争議調停法が,その母法となるべき労働組合法が成立せずに施行され,20年代後半に頻発する中小企業の労働争議に適用されながら,集団的労資関係の未成熟のまま警察行政と結びついた法外調停が主流となった点にみられるように,労働権の公認を基礎とする現代的労資協調体制は成熟しないで終わった。
[地主勢力の後退]
 段階的変容の第3は,第1次大戦期の急激な農産物市場ならびに労働市場の拡大を契機にして農村へ貨幣経済が浸透し,一方で地主層の有価証券投資が進み,他方で自小作・小作農民の商品生産者化,兼業農業化が進み,それを背景にして20年恐慌後米価が低迷するなかで小作争議が広範に展開し,そのために地主採算が悪化して地主制が後退過程に入ったことである。小作争議の高揚に対処して農商務省官僚の主導により半封建的地主小作関係を改革する新しい農地立法が企画されるが,地主勢力の反対により,小作権を強める農地法と小作組合法は成立せず,直接に小作争議の鎮定をはかる小作調停法だけが成立する(1924)。…

※「小作争議」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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