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菅江真澄 すがえ ますみ

美術人名辞典の解説

菅江真澄

江戸後期の国学者・紀行家。三河岡崎生。本名は白井英二のち秀雄、字は常冠、通称は永治。植田義方に和学・和歌を学ぶ。尾張藩薬園本草学を修得し、河村秀根考証学を、丹羽嘉言から漢学等を学ぶ。東北を遊歴後、秋田藩久保田に永住、藩内地誌編纂に従事。遊歴中の日記「真澄遊覧記」は、自筆の挿絵と共に貴重な民俗資料である。文政12年(1829)歿、76才。

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百科事典マイペディアの解説

菅江真澄【すがえますみ】

江戸後期の国学者,旅行家。本名白井秀雄。賀茂真淵の門人植田義方(よしえ)〔1734-1806〕に国学を学び,1781年三河の郷家を出て信濃,越後,秋田,津軽,南部,蝦夷(えぞ)地を遊歴。
→関連項目浅虫[温泉]岩手山鈴木牧之十和田湖古川古松軒

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

菅江真澄 すがえ-ますみ

1754-1829 江戸時代中期-後期の国学者,紀行家。
宝暦4年生まれ。三河(愛知県)の人。国学,本草学をまなび,天明3年より信濃(しなの),奥羽(おうう),蝦夷(えぞ)地などを遍歴。享和元年からおもに出羽(でわ)久保田藩(秋田県)領内に居住。旅先での地理,風俗を挿絵入りで記録した日記「真澄遊覧記」や,地誌,随筆をのこした。文政12年7月19日死去。76歳。本姓は白井。名は秀雄。

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朝日日本歴史人物事典の解説

菅江真澄

没年:文政12.7.19(1829.8.18)
生年:宝暦4(1754)
江戸中期から後期にかけての執筆家。生年には宝暦3年説も。姓は白井,本名英二。文化の半ばから「菅江真澄」の姓名を使う。名を知之,秀超,秀雄などという。家職は祈祷施薬,白太夫の家筋であった。父の名は秀真。三河国岡崎(愛知県岡崎市)に生まれ育ったが,長じてからは定住の地はなく,行脚に明け暮れる一生を送った。少年時代は岡崎城下成就院の稚児となり,植田義方に和学の階梯を示された。思春期に尾張へ移り,国学者で熱田神宮の祠官粟田知周の知遇を得,また名古屋藩の薬園で薬草栽培にたずさわり,本草学を修めるという経験をつんだ。安永6(1777)年に,尾張の儒者丹羽謝庵から漢学を学んだ。 天明3(1783)年三河を発ち,はじめて東北地方を訪ね,蝦夷へ渡った。行脚すること3年,本土へ戻ったのは寛政4(1792)年であった。同7年,津軽藩領へ入り,合計7年間の津軽逗留を終えるまでには,採薬御用を勤めたりもしたが,ついに行動不審を問われて日記や紀行を押収され,軟禁に処された。やがて享和1(1801)年に秋田領内に移ってからは,終身,同地の外に旅することはなかった。藩主佐竹義知に注目され,秋田藩の地誌作成を計画したが,藩士たちに阻止される向きもあって,文化11(1814)年の義知急死以後は,7年間の断筆を強いられた。文政5(1822)年から執筆再開,考証随筆『筆のまにまに』などの著述をものするとともに,藩命の下に,現地踏査に基づいた地誌『雪の出羽路平鹿郡』および『月の出羽路仙北郡』に着手した。しかし地誌の業は終えないうちに当地で逝った。概ね擬古和文によって綴られた紀行日記は,膨大な枚数に上り,著者の筆によって添えられる写生図とともに,江戸後期東北の歴史地理を浮き彫りにする精細な総図鑑である。<参考文献>内田武志・宮本常一編『菅江真澄全集』

(ロバート・キャンベル)

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世界大百科事典 第2版の解説

すがえますみ【菅江真澄】

1754‐1829(宝暦4‐文政12)
江戸時代後半の傑出した旅行家で,紀行文を多数残した。本名白井秀雄,通称英二。菅江真澄は晩年の雅号である。生地は三河国渥美郡(現,豊橋市近辺)といわれ,のちに三河国乙見荘(おとみのしよう)(現,岡崎市近辺)に移住した。国学,本草学の素養があり,その紀行文には各地の民俗資料についても細かな記述がなされている。28歳の1781年(天明1)より家を出て各地を旅するようになるが,とくに83年以後,諸国への長い旅に出た。

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大辞林 第三版の解説

すがえますみ【菅江真澄】

1754~1829) 江戸後期の国学者・旅行家。本名、白井秀雄。三河の人。信濃しなの・越後えちご・奥羽・松前を巡歴して著した紀行文は「真澄遊覧記」と総称され、民俗学・考古学などの好資料。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

菅江真澄
すがえますみ

[生]宝暦4(1754).三河,岡崎
[没]文政12(1829).7.19. 出羽,角館
江戸時代後期の国学者,紀行家。白井秀真の次男。幼名は英二,のち秀雄,真澄と改め,文化7 (1810) 年菅江と改姓。賀茂真淵の門人植田義方に国学を,浅井図南に本草学を学んだ。旅好きで,天明3 (1783) 年家を出て信濃,越後を経て奥州に入り,死にいたるまで奥羽各地を巡遊漂泊し晩年は秋田藩領内に住んだ。その間の見聞が精密な彩画入りの紀行文に詳しく記され,『真澄遊覧記』として七十余冊を数えている。また藩の依頼で『秋田藩領地誌』編纂にも従ったが未完。著書は多く,『秋田叢書』別集,『菅江真澄集』6冊,『南部叢書』巻6に収められ,1971年からは『菅江真澄全集』の刊行が開始された。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

菅江真澄
すがえますみ
(1754―1829)

江戸中期の国学者、紀行家、民俗学者。本名白井秀雄。三河国(愛知県)岡崎か豊橋(とよはし)付近の人。菅江真澄を称したのは、晩年秋田に定住してから。賀茂真淵(かもまぶち)の門人植田義方(うえだよしえ)に国学を学ぶ。各地を旅行して、庶民生活と習俗を日記と図絵に記録した『真澄遊覧記』50冊余(1783~1812)は、近世の民俗誌的価値がきわめて高い。真澄は、1783年(天明3)30歳で旅立ち、信濃(しなの)、越後(えちご)、出羽(でわ)を経て津軽に入り、1788年松前に渡った。その後、下北(しもきた)に3年間滞在し、津軽では各地の文人・医師らと交わった。この間、弘前(ひろさき)藩の採薬掛となり、山野に入って薬草採集を行った。一方、秋田藩の地誌の編集にも従事した。津軽関係の著作としては『津軽の奥』『外浜奇勝』『津軽のをち』、南部(なんぶ)関係では『奥の浦うら』『おぶちの牧』『奥のてぶり』、秋田関係では『月の出羽路』『花の出羽路』などが代表的である。これらの紀行文によって、当時の各地の年中行事、伝承習俗や庶民生活の実際を詳しく知ることができる。秋田仙北(せんぼく)郡角館(かくのだて)で没し、秋田の寺内に葬られた。[長谷川成一]
『内田武志・宮本常一編『菅江真澄全集』12巻・別巻1(1971~1977・未来社) ▽内田武志・宮本常一編・訳『菅江真澄遊覧記』全5巻(平凡社・東洋文庫) ▽柳田国男著『菅江真澄』(1942・創元社)』

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世界大百科事典内の菅江真澄の言及

【紀行文学】より

…なお,江戸期には,学者,文人の紀行作品が多数刊行されており,林道春(羅山)《丙辰(へいしん)紀行》,賀茂真淵《旅のなぐさ》,本居宣長《菅笠日記》あるいは貝原益軒《岐曾路之記》,橘南谿《東遊記》《西遊記》などがあり,井上通女《東海紀行》のように女性によって書かれたものもある。特に注目すべきは菅江真澄の1783年(天明3)から1829年(文政12)に没するまでの70冊におよぶ《遊覧記》と称せられる旅日記で,幕末期の東北地方の常民生活を類例をみないほど詳細に記している。【三谷 邦明】
[近現代]
 宿駅制度の改革と旅行の自由化,くわえて鉄道建設と海外交通とが近代の紀行文学の背景をなす。…

【鄙廼一曲】より

菅江真澄(すがえますみ)著の歌謡書。1809年(文化6)ころの成立。…

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