軽米村(読み)かるまいむら

日本歴史地名大系 「軽米村」の解説

軽米村
かるまいむら

[現在地名]軽米町軽米

雪谷ゆきや川流域を占め、西は高家こうけ村・晴山はれやま村・山内さんない村。文禄四年(一五九五)の南部信直書状(盛岡池野文書)に「かるまい」とみえる。南部信直は秋田氏との祝言の儀に先立って蔵普請を行ったが、種市たねいち(現種市町)・軽米などの村々に蔵用の敷板を賦課した。慶長一五年(一六一〇)盛岡藩主南部利直は北九兵衛愛継(のち直継)に「奥郡下軽米村」六七三石余など都合一千石を与えている(「南部利直知行宛行状写」北文書)。北直継は軽米城を居館とし、宣継・直継に至る寛文四年(一六六四)まで当地を支配した。なお寛永四年(一六二七)中軽米一〇四石余が八戸弥六郎直義(遠野南部氏)知行地となった(「南部利直知行宛行状」三翁昔語)

正保国絵図に軽米村とみえ高五八〇石余。この高は長倉ながくら村と小軽米こがるまい村を含むと考えられる。元禄一〇年(一六九七)の郷村御内所高帳には軽米通かるまいどおり村とみえ高一千三〇〇石余、同村は軽米・中軽米・小軽米・長倉の四ヵ村からなり、軽米は田二三二石余・畑三四八石余、中軽米は田三一石余・畑二六石余。天保五年(一八三四)の南部領高辻帳による〆高は田四〇七石余・畑七八一石余で、長倉村小軽米村を含むとみられる。同八年の仮名付帳は枝村として外川目そとかわめ村・小軽米村・尾田おだ村をあげる。また町四町としてしん町・おお町・なか町・あら町を記載。寛文四年の八戸藩成立に伴い、軽米城は廃止された。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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