八戸城下
はちのへじようか
八戸市の北東、馬淵川と新井田川の最下流部辺りに位置する。八戸台地の北西端にあたり、北東は太平洋に臨む。東は新井田川とそれに続く低地、西は台地を開析する小渓流の白山川(沢里川)、北は馬淵川とそれに続く低地、南は台地続きとなる。
〔盛岡藩による町づくり〕
伝承によれば寛永四年(一六二七)根城南部氏の遠野(現岩手県遠野市)転封後、盛岡藩二代藩主南部利直の手によって八戸城の築城と町づくりが行われたという(「付録伝」八戸市立図書館蔵、「八戸藩史料」)。城は柏崎または都台などと称されていた台地の末端に築かれ、城の南の大手筋を基準にして西方に上町として三日町・十三日町・廿三日町、東方に下町として八日町・十八日町・廿八日町の六町がつくられた。町割は一〇の曲尺によって行われ、上町に旧根城城下の商家、下町に旧新井田城下の商家が移されて、同七年に町並が完成したとされる。かつての居住地にちなんで、上町は根城町、下町は新井田町と別称されたともいう。
八戸城には城代が置かれ、その下には町奉行がいて、町方支配に当たった。雑書の慶安元年(一六四八)四月二三日条によれば八戸町奉行として鷹巣太郎左衛門・是川宮内が任命されている。同年一一月七日条によれば同年八戸新町一〇六軒の屋敷割が行われているが、このうち六八軒は家作りが行われ、一日市・六日市の市立ての願いが出されている。同書では正保二年(一六四五)に八日町、翌三年に三日町、慶安元年に廿八日町の町名がみえるところから、廿三日町から廿八日町までの表町がまず形成され、引続き新町としての裏町が形づくられたものと考えられる。正保三年から承応二年(一六五三)にかけて盛んに造船が行われているが、これらは八戸地方の産物を江戸へ送るための船とみられ、藩では海運の基地としていっそう八戸の町の整備に力を入れていったものであろう。承応三年には十八日町からの出火で廿八日町とその裏町も含めて六三軒が焼失し、さらに現来迎寺とみられる浄土寺も炎上している(「雑書」同年四月二九日条)。同書の寛文元年(一六六一)閏八月一日条によれば当時酒屋が二軒あり、礼金は一軒につき一〇両とされていた。
〔城下の形成と拡張〕
寛文四年一二月八戸藩が創設されると八戸の町は八戸藩の治所となり、城下町と定められた。藩成立当初の記録に城下の町割のことがみえないところから、盛岡藩時代につくられた町がそのまま城下町になったものと考えられる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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世界大百科事典(旧版)内の八戸城下の言及
【八戸[市]】より
…ウミネコの繁殖地[蕪(かぶ)島]や種差海岸(名)があり,毎年2月中旬には伝統芸能[えんぶり]が行われる。【横山 弘】
[八戸城下]
八戸藩の城下町。1627年(寛永4)に中世以来続いた根城(ねじよう)八戸氏が盛岡南部氏の家臣として遠野に移封後,盛岡藩の直轄地となり城代が置かれた。…
※「八戸城下」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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