日本歴史地名大系 「八戸城下」の解説
八戸城下
はちのへじようか
- 青森県:八戸市
- 八戸城下
〔盛岡藩による町づくり〕
伝承によれば寛永四年(一六二七)根城南部氏の
八戸城には城代が置かれ、その下には町奉行がいて、町方支配に当たった。雑書の慶安元年(一六四八)四月二三日条によれば八戸町奉行として鷹巣太郎左衛門・是川宮内が任命されている。同年一一月七日条によれば同年八戸新町一〇六軒の屋敷割が行われているが、このうち六八軒は家作りが行われ、一日市・六日市の市立ての願いが出されている。同書では正保二年(一六四五)に八日町、翌三年に三日町、慶安元年に廿八日町の町名がみえるところから、廿三日町から廿八日町までの表町がまず形成され、引続き新町としての裏町が形づくられたものと考えられる。正保三年から承応二年(一六五三)にかけて盛んに造船が行われているが、これらは八戸地方の産物を江戸へ送るための船とみられ、藩では海運の基地としていっそう八戸の町の整備に力を入れていったものであろう。承応三年には十八日町からの出火で廿八日町とその裏町も含めて六三軒が焼失し、さらに現
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報