長倉村
ながくらむら
[現在地名]伊達町 一本松・上台・姥石・江向・扇田・上志和田・柏木町・籠田・片町・川原町・上川原・北後・久根妻・沓形・沢田・下志和田・新町・神明前・志和田前・菅田・諏訪前・諏訪西・瀬戸場・堰上・堰下・高田・舘ノ内・田町・鶴巻・寺前・長町・中道・中志和田・長川原・根岸・根田・野崎・馬場口・干供田・細谷・前田・南堀・本町・柳内・屋敷間・雷電・六角
奥州道中を挟み岡村の西側に位置し、南は摺上川を挟み信夫郡瀬上村(現福島市)。平坦地で水田・畑地が混在する。延元四年(一三三九)七月日の伊達行朝申状(有造館本結城古文書写)に「長倉」とみえ、行朝およびその一族は建武二年(一三三五)八月の中先代の乱に際し、同月一三日の同地における合戦の恩賞として高野郡北方(現東白川郡)の地を拝領した。ただしこの長倉は現西白河郡西郷村長坂の旧名と伝えられる長倉のことともいわれ、現石川郡平田村中倉の可能性もある。応永七年(一四〇〇)足利満貞は伊達大善大夫入道円孝(政宗)討伐のため、新田岩松氏を大将として伊達西根長蔵の要害を攻撃させたが失敗した。同九年政宗は満貞に反したため上杉氏憲が大将として下り、伊達一族なかくら入道が長倉、赤館(現桑折町)に築いた要害を攻めている(余目氏旧記)。戦国時代、一帯は長倉郷と称された。永正一六年(一五一九)三月二四日の伊達稙宗安堵状案(伊達家文書)によれば、萱場鶴増に長倉方から買得した伊達西根長倉郷のうち弦巻田五段(年貢一貫八〇〇文)、北の後二段(年貢一貫文)、索麺田六百地や、志波田吉祥庵八百文、同寺領の弦巻二段、畠五百地などが安堵されている。
長倉村
ながくらむら
[現在地名]御前山村長倉
那珂川の左岸に位置し、東と西と北は山地に囲まれ、東は金井村。那珂川に沿って水戸より茂木(現栃木県芳賀郡)・烏山(同那須郡)方面への街道が走り、また当村から秋田村を経て烏山へ向かう道も通る。
寛文三年(一六六三)の開基帳(彰考館蔵)に「長倉村」とみえる。「水府志料」によると村の東西一八町・南北一五町、戸数はおよそ一一〇。
長倉村
ながくらむら
[現在地名]立山町長倉
白岩川上流の山腹に位置し、南は小又村・松倉村。村名は戦国時代に池田城の兵糧・武器保管の蔵があったことに由来するという(五百石地方郷土史要)。寛永一七年(一六四〇)の新川郡内知行所付状(神尾家文書)に長倉村として高一八五石余・免三ツ四歩六厘がみえ、都合四千石が神尾直次など五人に宛行われている。この長倉村は当地のこととみられる。正保郷帳では高一八四石余、田方七町余・畑方五反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の草高一〇五石、免四ツ四歩、明暦二年(一六五六)の新田高三石、小物成は山役一〇〇匁・蝋役四匁・漆役一〇匁・炭竈役二六匁、享保一三年(一七二八)の検地引高七一石余(三箇国高物成帳)。
長倉村
ながくらむら
[現在地名]横芝町長倉・長山台
坂田市場村の西に位置する。古代の武射郡長倉郷(和名抄)の遺称地とされる。戦国期に井田氏一族の長倉砦があった。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高六七六石。元和七年(一六二一)同高が旗本岡部領となり(文化一二年「知行所村々覚」大森家文書)、幕末に至る(旧高旧領取調帳)。寛文八年(一六六八)の鷹場五郷組合帳では八田組に属し、長蔵とみえる。
長倉村
ながくらむら
[現在地名]長岡市長倉町・美沢一丁目・花園三丁目・前田一―二丁目
長岡町の東方二キロ余の平地にあり、西は土合村、北は中沢村、東は常願寺村、南は鉢伏村に通ずる往来路がある。天正村名考(温古之栞)に「土田長倉六十三軒」と伝える。元和四年(一六一八)の長岡藩知行目録に「長蔵村」とあり、高四七〇石一斗余で、正保国絵図・元禄郷帳も同高。旧高旧領取調帳では高五四一石余で天保郷帳と同高。地内の観音堂は、伝えによると大同年中(八〇六―八一〇)の開基といい、慶長(一五九六―一六一五)頃までは堂宇広壮で仏供料の地も多く、別当の寺もあったが、越後一揆の際に焼亡し、三寸余の本尊銅造聖観音像は紛失。
長倉村
ながくらむら
[現在地名]上宝村長倉
高原川中流右岸、高鳥屋山麓にあり、南の対岸は鼠餅村、西は岩井戸村。慶長一八年(一六一三)の飛騨国郷帳では長蔵村とあり、高原郷に属し、高三三石余。元禄検地反歩帳によると、高九六石余、田六反余・畑二四町五反余。「飛騨国中案内」では免二割三分六厘五毛、家数三六(うち寺一・百姓三二・門屋三)、傾斜地で地質劣る。天明八年(一七八八)の村明細帳によると、田五石余・畑一〇九石余、反別田九反余・畑二八町一反余、新田として畑一五石余・反別七町九反余、家数四二、男一〇五・女八五、牛三六、猟師鉄砲一。
長倉村
ながくらむら
[現在地名]柳津町猪倉野
郷戸原南東部にあり、北は柳津新村、東は銀山川を隔てて猪鼻村、南は山に続く。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では高一六四石余。寛文五年(一六六五)の「稲河領牛沢組郷村万改帳」では本田高二一五石余・新田高八斗余、免三ツ九分二厘余、家数二五、竈三三、男七九・女六〇、馬一三で、小物成に綿役・糠藁・足前・山役・松葉サライがあり、ほかに役漆木二千三〇〇本・役蝋四八貫三〇〇匁がある。
長倉村
ながくらむら
[現在地名]大田原市北金丸
南東流する相ノ川西岸に位置し、集落は微高地にある。北は木立村、南は北金丸村。建久四年(一一九三)四月源頼朝の那須野での狩の際、那須光資が那須庄「長倉」に屋形を構え、頼朝に御膳を献じたという(年未詳一〇月二八日「足利成氏書状写」那須文書)。「那須拾遺記」は村内にこの長倉館の跡があると記す。永正(一五〇四―二一)頃と推定される七月一九日付の佐竹義舜書状写(那須文書)によれば、義舜は佐竹氏に味方して長倉口へ動いた那須左衛門太輪へ長倉遠江守当知行の地を宛行っている。
長倉村
ながくらむら
[現在地名]軽米町長倉
現町域の北端にあたり、丘陵地帯に立地。南・西は軽米村。元禄一〇年(一六九七)の郷村御内所高帳には軽米通村の一として村名がみえ、高五九石余で畑方のみ。天保八年(一八三七)の仮名付帳では高家村の枝村とされている。独立村としてみえるのは旧高旧領取調帳で、同帳によれば高五〇石余。宝暦一三年(一七六三)に洪水があり、稲田二千一四〇束刈が損毛となっており(八戸藩史料)、当地でも稲作が行われていたことが知られるが、農業の中心は稗など雑穀を主とした畑作である。
長倉村
ながくらむら
[現在地名]玄海町大字長倉
有浦川の中流の地域を占め、緩やかな山腹にあり、平坦地も多い。
有浦家文書の康永元年(一三四二)源(佐志)勤から次男披への譲状に長倉村が含まれている。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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世界大百科事典(旧版)内の長倉村の言及
【沓掛】より
…維新後衰微したが,大正時代から千ヶ滝地域が別荘地となり,さらに鬼押出や星野温泉の入口として繁栄することになった。明治になって付近と合併して長倉村となり,1889年軽井沢村などと合併して東長倉村,1923年軽井沢町となる。さらに56年国鉄が駅名を中軽井沢と変えたのに伴い60年字名も中軽井沢とした。…
※「長倉村」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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