邇保庄
にほのしよう
古代野洲郡邇保郷(和名抄)の郷域に成立したと考えられ、日野川(仁保川)右岸の現江頭町・小田町・十王町付近に比定される。仁保とも記す。南北朝期のものと推定される賀茂御祖社社領目録(賀茂神社文書)に近江国「邇保庄」とみえ、京都下鴨社領であった。延文五年(一三六〇)一二月二五日、北朝は同社に邇保庄を安堵している(「賀茂社古代庄園御厨」同文書)。文安元年(一四四四)七月六日には邇保庄用水を相原郷(桐原郷か)が押領しているという下鴨社雑掌の訴えに基づき、幕府は山門使節に当庄への沙汰付を命じた(「室町幕府奉行人奉書」江頭共有文書)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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