山門使節(読み)さんもんしせつ

改訂新版 世界大百科事典 「山門使節」の意味・わかりやすい解説

山門使節 (さんもんしせつ)

南北朝時代末期に室町幕府延暦寺衆徒統制のために作った組織。メンバーには,当時山徒と呼ばれていた衆徒らのうちで特に強勢な者が選ばれた。延暦寺の衆徒は,南北朝の内乱の初め,後醍醐天皇方について足利尊氏ら武家勢力を悩まして以来,南北朝時代を通じことあるごとに嗷訴(ごうそ)をもって室町幕府,北朝を威嚇し,その統制は幕府の積年懸案であった。この懸案解決の道を,山門使節の創設に見いだしたのは,3代将軍足利義満である。義満は衆徒のなかにあって勢力を振るっていた杉生坊,金輪院,円明坊といった〈大名〉の山徒を山門使節として組織化,彼らを通じて間接的に衆徒らを統制していこうとした。彼ら山徒は,それまで延暦寺にあって,青蓮院,妙法院,梶井門跡といった有力門跡の門主と私的な主従関係を結び,門跡領の諸荘園の管理や門跡間の抗争に活躍し,権勢を振るっていた。

 室町幕府は,山門使節を通じて,本来ならば守護不入の特権の下で幕府の力の及ばない延暦寺の支配地にまで威令を貫徹させようと努め,彼らに延暦寺内における使節遵行権,軍事警察権,裁判権などの一部を与えている。しかし,これらの幕府の政策にもかかわらず,1433年(永享5)に至ると,山門使節と幕府はまっこうから対立し,35年2月まで激しい争いが続く。この永享の山門騒乱とも呼ばれる抗争の原因としては,6代将軍義教専制政治他方で,山門使節らが幕府機構の末端に位置付けられながらも,いまだ延暦寺衆徒の代表としての性格を失っておらず,義教の専制政治と対決したことがあげられよう。なお山門使節は,この騒乱を境としてそのメンバーの多くが変わり,騒乱で殺された円明坊,乗蓮坊,杉生坊,月輪院,金輪院に代わって,騒乱後は護正院,西勝坊,行泉坊といった山徒が幕府より山門使節に任命されている。こののち山門使節の名は,戦国時代まで史料に見えるが,応仁・文明の乱を契機として,室町幕府の衰退とともにその活動もおとろえていった。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

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