日本歴史地名大系 「金ヶ作村」の解説 金ヶ作村かねがさくむら 千葉県:松戸市金ヶ作村[現在地名]松戸市金ヶ作・常盤平(ときわだいら)一―七丁目・常盤平西窪町(ときわだいらにしくぼちよう)・常盤平松葉町(ときわだいらまつばちよう)・常盤平陣屋前(ときわだいらじんやまえ)・常盤平柳町(ときわだいらやなぎちよう)・牧の原(まきのはら)・牧の原一―二丁目栗(くり)ヶ沢(さわ)村の南、千駄堀(せんだぼり)村の東に位置する。享保期(一七一六―三六)に小金(こがね)牧のうち中野(なかの)牧の御放馬囲いの一部と野馬立場台地上を開いて成立した新田村。村の南端を布佐(ふさ)(現我孫子市)から松戸河岸へ通ずるなま道が通り、同道沿いの日暮(ひぐらし)村境には小金・佐倉両牧の新田開発などのために設けられた金ヶ作陣屋があった。また将軍鹿狩の御立場へ松戸方面から通じる御成道は地内の通称五助木戸(ごすけきど)から南に入った。享保一五年幕府代官小宮山杢之進による検地高入れが行われて成立。以後幕府領で幕末に至る(旧高旧領取調帳)。開発請人は善右衛門と忠七の二人。善右衛門は江戸の町人で、忠七は日暮村八蔵の分家とも伝える。善右衛門は串崎(くしざき)新田、忠七は田中(たなか)新田の開発人でもあった(松戸市史)。開発は当初から忠七組と善右衛門組とに分れて行われた。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by