松戸市(読み)マツドシ

デジタル大辞泉 「松戸市」の意味・読み・例文・類語

まつど‐し【松戸市】

松戸

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日本歴史地名大系 「松戸市」の解説

松戸市
まつどし

面積:六一・三三平方キロ(境界未定)

県の北西部に位置し、南は市川市、東は鎌ヶ谷市・東葛飾ひがしかつしか沼南しようなん町、北は柏市・流山市と接し、西は江戸川を境に東京都葛飾区・江戸川区、埼玉県三郷市。JR常磐線・同武蔵野線、東武鉄道野田線・新京成電鉄・北総開発鉄道・総武流山電鉄、国道六号・同四六四号などが通る。市域は江戸川左岸の沖積低地下総台地からなり、同台地では樹枝状に支谷が発達する。低地や支谷に面する台地上には貝塚を中心とした縄文時代の遺跡が数多く分布する。

〔古代・中世〕

古代には下総国葛飾郡に属していたと思われる。当地は西方の武蔵国、北方の常陸国に通じる交通の要衝であったと考えられ、古代の東海道下総国茜津あかねつ駅を市域に比定する説もある。「更級日記」にみえる武蔵国境の「まつさとのわたりの津」は松戸のこととされる。中世には風早かざはや(庄)が成立。同郷は香取神宮の造営役を負担し、千葉一族の風早氏が地頭となっていた。一五世紀半ば頃にくりさわに入り土着したとされる高城氏は、のち根木内ねぎうち城、天文(一五三二―五五)頃には大谷口おおやぐち小金こがね城を築き居城とした。以後同氏は小田原北条氏との関係を深めていくが、天正一八年(一五九〇)の小金城落城まで市域のみならず北総一帯に勢力を有していた。当地には千葉氏ならびに高城氏の外護を得た寺院が多い。馬橋の萬満まばしのまんまん寺は千葉氏六代頼胤が鎌倉極楽寺の良観を招き千葉氏一門の菩提寺として一寺を建立、大日だいにち寺と号したのが草創という。平賀の本土ひらがのほんど寺は建治三年(一二七七)日蓮の弟子日朗を開山として創建され、日朗門流の本山の一つとして教勢を広げた。千葉一族の多くが帰依したが、同寺の大過去帳(本土寺過去帳)は応永(一三九四―一四二八)から近世初頭にわたるもので、関東の政治史を伝える貴重な記録ともなっている。

〔近世〕

天正一八年徳川家康の関東入国により小金城には家康五男武田信吉が三万石で封ぜられた。このとき市域の多くの村が信吉領となったものと思われるが、個々の村名は明らかではない。信吉は文禄元年(一五九二)に佐倉(現酒々井町)へ転封となり、市域には旗本領が多く設定された。旗本領の多くは分散知行で、知行地は当市域のほか現野田・流山・柏の各市域に分散しているものが多かった。元禄一〇―一一年(一六九七―九八)の地方直しで一部知行替が実施されたものの、幕末までこの傾向は変わらなかった。ほかに幕府領や本多氏領(旗本本多氏は元禄元年大名に列し、のち移封により上野沼田藩領・駿河田中藩領と変遷)の村があり、また相給の村も多かった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「松戸市」の意味・わかりやすい解説

松戸〔市〕
まつど

千葉県北西部,江戸川下流部左岸にある市。 1943年松戸町と馬橋 (まばし) ,高木の2村が合体して市制。中心市街地は,江戸時代には水戸街道宿場町利根川,江戸川水運の河港でもあり,4と9の日を市日とする六斎市が開設され,市場町として繁栄した。明治時代以後は郡役所がおかれ,地方行政の中心地となった。 1960年代以降は住宅都市としての発展が著しく,大規模な常盤平小金原などの住宅団地が造成され,急速に都市化が進行している。一方,北松戸,稔台,松飛台に内陸工業団地が形成され,工業都市の性格を加えている。面積 61.38km2。人口 49万8232(2020)。

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