日本大百科全書(ニッポニカ) 「鎧潟干拓地」の意味・わかりやすい解説
鎧潟干拓地
よろいがたかんたくち
新潟県西蒲原郡(にしかんばらぐん)の越後(えちご)平野中央にあった潟湖(せきこ)群の一つ旧鎧潟(よろいがた)の干拓地。付近は信濃川(しなのがわ)の三角州端が蒲原砂丘に阻まれて、近世末までは広大な大沼沢地を形成していたラグーン・マーシュで、鎧潟はその最大の洪水調節湖であった。1820年(文政3)の長岡・村上藩による新川(しんかわ)分水の掘削で、三潟(さんがた)(鎧潟、田潟、大潟)干拓新田の開発が進み、潟湖群はほとんど干拓された。残った鎧潟は1958年(昭和33)から国営事業による鎧潟干拓土地改良事業が進められ、1966年鎧潟大排水機場と、新川の改修工事で完全に干拓され、その姿を消した。これによって2.35平方キロメートルの圃場(ほじょう)と、23.4平方キロメートルの土地改良が実施された。圃場内は大規模機械農のモデル地区に指定され、県農業教育センターとして興農館(こうのうかん)高校(2002年閉校)が置かれていた。
[山崎久雄]