しん‐かわ‥かは【新川】
- [ 一 ] 大阪市を流れる安治(あじ)川の旧称。元祿一一年(一六九八)に安治川に改められた。
- [ 二 ] 東京都中央区新川一丁目にあった堀江。霊岸島を南北に分けて流れ、両岸には酒や醤油の問屋が多かった。新堀川。
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新川
しんかわ
大通川・飛落川の合流する西蒲原郡巻町・西川町・潟東村の境から、周辺の悪水を集めながら北流し、新潟市域に入ると流路を北西に変え、同市五十嵐二の町、同三の町の境界で日本海に注ぐ。西川と中ノ口川に挟まれた、ゆるいすり鉢状地形の底にあたる、標高一メートル以下の低湿地帯の排水幹線で、全長約一三キロ、全流域面積は二七四・一二平方キロ。毎秒二四〇立方メートルの排水能力をもつ新川河口排水機場で洪水位の調節を行っている。
近世中頃まで、前記低湿地帯には、三潟とよばれる鎧潟・大潟・田潟をはじめ大小多くの潟沼が散在し、ひとたび雨が降れば悪水が湛水して逃げ場がなく、毎年のように浸水被害に遭った。排水のための掘割開削の計画は、当地に残存する資料でも、元文二年(一七三七)から文化元年(一八〇四)の間に九回の請願が出されたことがわかるが、いずれも信濃川の減水を恐れた新潟町民の激しい反対に遭い実現しなかった。周辺諸村の地先水面を除く三潟の入会水面は、当初幕府領であった。長岡藩は安永八年(一七七九)山崎村新田はじめ九新田を上知し、替わって沼高計三六七石一斗余(天保郷帳)の三潟を受領している(「三潟引替地書付」伊藤喜止男氏蔵)。
新川
しんかわ
中通川の流れを山崎山西側沿いに掘り変えた人工の川で、牛津川に注ぐ。
「丹邱邑誌」の「新川」には「中通川ノ下流ナリ、享保九年、石井九郎右ヱ門忠成、官ニ請テ自ラ山崎山西麓ヲ掘リ、川ヲ立替、古川ヲ埋、水田ト成シ、自己ノ支配地トセント計リ、多ク失費ヲ成タルニ、新ニ掘タル地、岩耳ニテ、堀深クナリカネ、水底田ヨリ高シ、然レトモ財尽テ、岩ヲ切抜事アタハス、ソノママナリシユヘ、後世水害多ク、古川モ亦水田トナリ兼、農民ノ憂患トナレリ。此川幅八間、土井敷五間ト極居也」とあって、享保九年(一七二四)多久家家臣石井九郎右衛門が開削を始めるが、岩盤にあたって工事を進めることができず、資金も尽きている。
同書には、さらに領主への願いが許可された時の事情に触れているが、それによると「右普請五ケ年ハ、九郎右ヱ門普請、六ケ年以後ハ上ヨリ普請、(中略)右古川内田ニ相成候而、三ケ年ハ御定之通無采地、四ケ年目ヨリ一段ニ付三斗上納相懸ラレ、向後ハ九郎右ヱ門下地仕候様」とあるが、難所にかかった工事は、九郎右衛門も領主も手を着けかねたまま中断し、水害を繰り返すことになった。
新川
しんかわ
碧南市北部の油ヶ淵の排水路。西の衣浦湾に注ぐ。油ヶ淵が成立してから長田川・稗田川・高取川・半場川・朝鮮川がことごとく流入するようになったので、新たな排水路建設を江戸の商人伏見屋又兵衛が行い、油ヶ淵の周囲と矢作川沿いに、次々に新田が築かれた。これが伏見屋新田である。
しかしかえって矢作川の排水が悪くなったため、元禄一四年(一七〇一)再び西海岸の大浜村千福で排水する新しい水路の建設が計画され、宝永二年(一七〇五)完成。この水路が新川である。しかしこの排水も不十分で、油ヶ淵沿岸民と大浜村との間にしばしば紛争を生じ、長期にわたった。池周りの村々は配水をよくするため堀底を広げたり、水門を上流に移すことを要求し大浜村と対立した。
新川
しんかわ
札幌市の北部低地を北西方に直流し、小樽市銭函の大浜海岸で石狩湾に注ぐ排水路。二級河川。流路延長一〇キロ(全区間指定流路)、流域面積一九四・七平方キロ。明治時代前期に湿地(泥炭地)であった札幌北部原野の排水工事の一環として開削された人口河川。現在は上流から琴似川・琴似発寒川・新発寒桜川・中の川・発寒古川・樽川・手稲山口川・濁川・清川などの諸河川が当川に注いでいる。排水路開削は明治二〇年(一八八七)に「小樽内川ヨリ琴似川ニ至ル」三千四三五間の工事として開始され、翌年八月に竣工。
新川
しんかわ
天保二年(一八三一)から六年の歳月を費やして松江藩が開削した斐伊川の分流。松江藩は洪水を防ぐため幾度も川違えを行った。なかでも新川開削(当時は川違えという)は、斐伊川の洪水緩和とともにその沖積作用により荘原湾を埋立てて新田開発を企図したもので、最大規模の工事であった。新川は出雲郡の中央を出西村から下庄原村までほぼ一直線に横断する幅約二五〇メートル、長さ約一二・五キロの川で、途中直江丘陵を東西に貫き、豊かな水田地帯を縫って通された。
新川
しんかわ
天明七年(一七八七)に開削された川。比良(名古屋市)から庄内川の右岸をほぼ平行して、西春日井郡内を東南に流れ、さらに海部郡内を通って伊勢湾に注ぐ。江戸時代中期には庄内川は河床が高くなって、大山川などの水が庄内川に落込むことができず、周辺の村々は度々水害を被っていた。藩は安永八年(一七七九)の水害を契機に、杁奉行水野千之右衛門士淳の請願を受入れ、庄内川洗堰(名古屋市の→味鋺川洗堰)と新川の開削を行うことにし、人見弥右衛門黍を参政、千之右衛門を普請奉行として、天明四年に工事にかかり、工費四〇万両をかけて同七年に完成させた。
新川
しんかわ
亀島川の支流で、富島町一丁目から霊岸寺四日市町と霊岸寺銀町一―二丁目との間を日本橋川に並行して南東流し、隅田川(大川)に合流していた運河。北西から一ノ橋・二ノ橋・三ノ橋が架かる。万治年間(一六五八―六一)に河村瑞賢によって開削されたといい、瑞賢屋敷も川沿いにあった(武江年表)。「江戸名所図会」には「新川酒問屋」の挿絵があり、河岸には下り酒問屋が集中して繁盛していた様子が描かれる。
新川
しんかわ
渡良瀬川に架かる国鉄両毛線の鉄橋下、丸山下赤岩から桐生市街を東流し、桐生川に合流。全長二・五キロ。桐生国綱が観応元年(一三五〇)桐生城(檜杓山城)を築いたとき、渡良瀬川の還流が瀞堀となっていたものを改修し、渡良瀬川の水を引入れ、桐生川に流すことによって桐生城南方の要害としたという(関東庭軍記)。下瀞ともよばれた。桐生城が廃城となったあと、引入れ口がふさがりもとの瀞堀となったが、弘化年間(一八四四―四八)、明治二年(一八六九)、同三年の大水の際に渡良瀬川の放水路の役目を果した。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
新川
しんかわ
愛知県北西部、西春日井郡(にしかすがいぐん)にあった旧町名(新川町(ちょう))。現在は清須(きよす)市の中央部を占める一地区。名古屋市に隣接する商工業の町で、新川が貫流。1890年(明治23)町制施行。1906年(明治39)新川町は桃栄(とうえい)町と寺野、阿原(あわら)の2村と合併。2005年(平成17)西枇杷島(にしびわじま)町、清洲(きよす)町と合併、市制施行して清須市となる。JR東海道本線、東海交通事業城北線が通じ、名古屋鉄道本線と津島線の分岐点。国道22号が通じる。中心の須ヶ口(すがぐち)は清洲(きよす)城第三外堀の外側にあたり、別名外町(そとまち)といわれ、美濃(みの)路、津島路の分岐点にできた盛り場。旧町名となった新川は庄内(しょうない)川の分流路。1757年(宝暦7)の大洪水を契機に、1787年(天明7)開削された人工河川で、名古屋市の比良(ひら)の大蒲(おおがま)沼から榎津(えのきづ)まで21キロメートル。中心産業である工業は1925年(大正14)の豊田式織機(現、豊和工業)の立地以後で、紡績をはじめパルプ、食品、機械などの工業が盛んである。特産品に曲げ物細工がある。
[伊藤郷平]
『『新川町誌』(1955・新川町)』
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新川[町]【しんかわ】
愛知県西部,濃尾平野中部の西春日井(にしかすがい)郡の旧町。洪水調節のため天明年間に掘られた新川が流れる。名古屋市の北西に接する工場地帯で,機械工業が盛ん。花卉(かき)などの園芸農業も行われる。中心の須ヶ口地区は名鉄本線と津島線の分岐点。2005年7月西春日井郡西枇杷島町,清洲町と合併し市制,清須市となる。4.70km2。1万8417人(2003)。
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新川
しんかわ
愛知県北西部,清須市中部の旧町域。名古屋市西方の庄内川を隔てたところに位置する。 1890年町制。 2005年西枇杷島町,清洲町の2町と合体して清須市となった。庄内川の氾濫による水害を克服するために,天明7 (1787) 年に新川が掘られ,町名はこれに由来。機械工業,醸造 (ビール) 業があり,野菜,花卉などの促成栽培も行なわれている。名古屋鉄道名古屋本線と津島線の分岐点で,名古屋市への通勤者の住宅地も多い。
新川
しんかわ
愛知県南西部,碧南市北部の地区。東部の油ヶ淵の水を排水するために,元禄 13 (1700) 年に開削された新川が町名の起源。舟運の便があって,河岸沿いに市街地が発達。河口北部に埋立て地ができて商港として名をなし,港町として発展。高浜市とともに三州瓦生産の核心地域であるが,衣浦臨海工業地域造成によって,近代工場も立地。
新川
しんかわ
東京都中央区東部の商業地区。隅田川の西岸,日本橋川の合流点の南に位置し,江戸時代初期,江戸湾と江戸城周辺を結ぶ運河が設けられてから,倉庫業,回船業の中心となり,関西系の酒を扱う下り酒問屋が集中した。現在も倉庫や酒問屋が多い。
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新川
正式社名「株式会社新川」。英文社名「SHINKAWA LTD.」。機械工業。昭和34年(1959)「株式会社新川製作所」設立。同55年(1980)現在の社名に変更。本社は東京都武蔵村山市伊奈平。産業機械メーカー。半導体用の各種製造装置の開発・製造・販売を行う。結線装置のシェアは世界屈指。東京証券取引所第1部上場。証券コード6274。
出典 講談社日本の企業がわかる事典2014-2015について 情報
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