長友佑都(読み)ながともゆうと

知恵蔵 「長友佑都」の解説

長友佑都

愛媛県西条市出身のプロサッカー選手。1986年9月12日生まれ。身長170cm、体重68kg。血液型O型。ポジションディフェンダー
小学校からサッカーを始め、中学校入学時には愛媛FCの育成チーム(ジュニアユース)の入団テストを受けるが、不合格。市立西条北中学校サッカー部に入部。井上博監督(現・新居浜市立北中教諭)との出会いが転機となって練習に打ち込むようになり、3年の秋には同監督の指導により公式戦終了後に駅伝出場を目指して走り込みを行い、持ち味となるスタミナが養われた。
中学卒業後、サッカーの強豪、東福岡高校に進学。しかし無名選手のまま卒業し、明治大学に入学した。その後、ポジションをミッドフィルダーからサイドバックに転向したことで、資質開花攻守にタッチライン際を何度も往復するポジションで、持久力が求められ、長友自身、「天職だった」と語っている。2年時にU-22日本代表に選ばれ脚光を浴びる。同大とFC東京との練習試合の機に才能を見出され、大学に籍を置いたまま、2008年にFC東京と正式契約。 開幕からスターティングメンバーとして出場し、同年5月、日本代表に初選出、8月の北京オリンピック出場を果たす。日本代表チームでの背番号は5。09年、Jリーグ・ベストイレブン受賞。
10年6月、南アフリカで開催されたFIFAワールドカップ大会において、カメルーン代表FWエトー(インテル)らを封じた活躍により、7月、イタリア1部リーグ(セリエA)のチェゼーナに移籍金推定180万ユーロ(約2億円)の買い取りオプション付きでレンタル移籍した。その後、セリエAの移籍市場最終日である11年1月31日、移籍交渉期限のわずか3分前である午後6時57分に、チェゼーナからミラノ本拠地を置くインテル・ミラノへの移籍が決まり、日本だけでなく世界のサッカー界を驚かせた。背番号55。

(葛西奈津子  フリーランスライター / 2011年)

出典 (株)朝日新聞出版発行「知恵蔵」知恵蔵について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「長友佑都」の解説

長友佑都 ながとも-ゆうと

1986- 平成時代のプロサッカー選手。
昭和61年9月12日生まれ。ポジションはDF。東福岡高から明大にすすみ,大学3年の平成19年FC東京の特別指定選手(翌20年大学在学中に正式入団)となる。20年キリンカップのコートジボワール戦が国際Aマッチ初出場,同年U-23代表,北京五輪代表に選ばれた。21年Jリーグ・ベストイレブン。豊富な運動量とフィジカルの強さが特長。22年FIFAワールドカップ(南アフリカ大会)の日本代表にえらばれ,全4試合に出場し,相手チームのエースをマークして決勝トーナメント進出に貢献した。同年イタリアのセリエAのチェゼーナへ移籍。23年1月同じくセリエAのインテル・ミラノに期限付きで移籍,同年7月完全移籍。25年アジア・サッカー連盟最優秀国際選手にえらばれる。26年FIFAワールドカップ(ブラジル大会)の日本代表にえらばれる。愛媛県出身。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「長友佑都」の意味・わかりやすい解説

長友佑都
ながともゆうと
(1986― )

プロサッカー選手。ディフェンダー(DF)。9月12日、愛媛県生まれ。明治大学―FC東京―ACチェゼーナ(イタリア)―インテル(イタリア)。Jリーグ初出場は2008年(平成20)3月8日、ヴィッセル神戸戦。国際Aマッチ初出場は同年5月24日、コートジボワール戦。U23(23歳以下)日本代表として2008年オリンピック北京大会に出場した。2010年ワールドカップ南アフリカ大会、2014年ワールドカップ・ブラジル大会の日本代表選手。

[編集部]

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