日本歴史地名大系 「長堀茂左衛門町」の解説 長堀茂左衛門町ながほりもざえもんちよう 大阪府:大阪市南区長堀茂左衛門町[現在地名]南区島之内(しまのうち)一丁目・長堀橋筋(ながほりばしすじ)一丁目・鰻谷中之(うなぎだになかの)町単に茂左衛門町ともいう。長堀橋本(ながほりはしもと)町の対岸、長堀川を挟んだ南側にある。北向きの片側町で、東は東横堀(ひがしよこぼり)川、西は難波橋(なにわばし)筋まで。東から箒屋町(ほうきやまち)筋・板屋橋(いたやばし)筋(一丁目筋)・八百屋町(やおやまち)筋・堺(さかい)筋が通り、長堀川の板屋橋筋に新(しん)橋、堺筋に長堀橋が架かる。町名は明暦元年(一六五五)から確認できる(南区志)。初発言上候帳面写には誉田屋(こんだや)町・宗円(そうえん)町・茂左衛門町の三町が合体して茂左衛門町となったとある。明暦―寛文年間(一六五五―七三)の近世大坂地図には「長ホリ南輪丁」とみえ、古町名を示していると思われる。延宝八年(一六八〇)には長堀橋本町の一三軒を加えて二五軒とし、水帳作り直しがなされた(「長堀茂左衛門町水帳」南区役所旧蔵)。同帳奥書によれば、長堀橋本町は長堀川南側にも町域があって、その部分が当町に合体したことになる。寛永一三年(一六三六)和泉屋理兵衛が長堀川南岸東端の土地を購入した時の沽券状(住友修史室蔵)によると、泉屋住友家の長堀銅吹所の発端となったこの土地は「長堀南側壱町目」にあり、売主が牧九郎兵衛母妙蓮である点が注目される。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by