長堀川(読み)ながほりがわ

日本歴史地名大系 「長堀川」の解説

長堀川
ながほりがわ

南区の北部から西区の南部を西流していた堀川。東端は南区の東横堀ひがしよこぼり末吉すえよし橋南で、西流して西横堀川と交差し、西区しん町四丁目で木津きづ川に流入していた。江戸時代の長さは二二町二二間半、幅は上で二五間、下で二四間であった(天明七年「松平石見守殿御初入ニ付差出御覚書」京都大学蔵)。「大阪市史」は開削を寛永二年(一六二五)とする。しかし元和五年(一六一九)下難波しもなんば(現浪速区など)農地一〇町五反余、生玉いくたま(現天王寺区)領一町一反余が長堀川用地に転換され(「古来より新建家目論見一件」成舞家文書)、また三津寺みつてら(現南区)農地一町四反余も用地に転換されており(元和六年「三津寺畠やしきニ成申候帳」御津宮文書)、開削開始は同年秋―冬か翌年と考えられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報