日本歴史地名大系 「長塚郷」の解説
長塚郷
ながつかごう
現長塚一帯に比定される。「一蓮寺過去帳」に永享五年(一四三三)四月一九日の合戦で死亡した長塚の長阿弥陀仏が載る。「高白斎記」天文二二年(一五五三)九月一七日条に「余部左京方へ長塚ノ内十二貫文ノ分ノ夫銭並棟別家一御免之御印判被下候」とあり、当地は余部左京領で、武田氏の免判を与えられた。天正一〇年(一五八二)九月三日の徳川家印判状写(記録御用所本古文書)によると、横地弥三元貞は甲州長塚分七〇貫文・右見出分二〇貫文・同余部分二貫文などを本領安堵され、同年一一月一七日、神戸平六は守屋十左衛門跡職として長塚内三四貫文などを宛行われた(「徳川家印判状写」同古文書)。同年一二月一日に市川源五郎が本領として甲州長塚之内塩田分四〇貫文・夫丸一人を安堵されている(「徳川家康判物写」同古文書)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報