長塚村(読み)ながつかむら

日本歴史地名大系 「長塚村」の解説

長塚村
ながつかむら

[現在地名]各務原市那加長塚町なかながつかちよう那加手力町なかてぢからちよう那加兼橋町なかかねはしちよう那加神田町なかじんでんちよう那加新田町なかしんでんちよう那加五反田町なかごたんだちよう那加荒田町なかあらたちよう那加大谷町なかおおたにちよう那加浜見町なかはまみちよう那加大門町なかだいもんちよう那加石山町なかいしやまちようなど

村の北西部で流路を変えて南西流するさかい川の左岸に位置し、北は山後やまうしろ村。南端を中山道が東西に通る。集落は北部の丘陵地に位置し、南東に枝郷長塚新田がある。光得こうとく(現羽島郡笠松町)の文明七年(一四七五)一一月二八日の梵鐘陰刻銘に「各務郡弓削田庄佐良木郷長塚宮推鐘」とみえる。


長塚村
ながつかむら

[現在地名]双葉町長塚

浜街道に沿い、南は新山しんざん村、北は鴻草こうのくさ村、西は下羽鳥しもはとり村。総士禄高調の文禄二年(一五九三)の項に「七百五十三文 なかつか監物丞」とあるが、監物丞は末森すえのもり(現浪江町)の人で、諸方に土地をもっていたと思われる。寛永一六年(一六三九)の検地高七二八石余(相馬藩政史)正保郷帳では田方三六二石余・畑方一一七石余。元禄郷帳では高六四一石余。正徳元年(一七一一)の高辻帳(福島県史)でも高六四一石余。


長塚村
ながつかむら

[現在地名]銚子市長塚町

本城ほんじよう村の北西方、利根川右岸に位置し、銚子道が通る。永禄一一―一二年(一五六八―六九)頃と思われる一二月二三日の千葉富胤判物(原文書)に長塚とみえ、桜井さくらいの替地としてみの房に与えられている。寛永四年(一六二七)旗本松平領となり,年未詳の松平氏領書上(宮内家文書)では長塚村三八二石余。元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分では高五七二石余で幕府領


長塚村
ながつかむら

[現在地名]敷島町長塚

現敷島町の最南部、あら川流域に位置する。中世の長塚郷の遺称地。慶長六年(一六〇一)の長塚村検地帳(県立図書館蔵)では反別二一町一反余、うち田一一町二反余・畑九町九反余、屋敷三千九七七坪・屋敷数三〇。慶長古高帳では高三五四石余。貞享元年(一六八四)の検地帳(県立図書館蔵)では反別三九町余、うち田二〇町八反余・畑屋敷一八町一反余。宝暦六年(一七五六)版三郡村高帳によると高五〇四石余。文化三年(一八〇六)の書上(中巨摩郡志)によると家数五四・人数一八七。青梨子が名産で、中秋には江戸へ出荷した。


長塚村
ながつかむら

[現在地名]下妻市長塚

鬼怒きぬ川と沼に挟まれた台地上にあり、北は前河原まえがわら村。室町中期以降は多賀谷氏が支配し、慶長七年(一六〇二)に天領、正徳二年(一七一二)の井上氏下妻入部後は藩の城付領となる。元禄郷帳の村高は五七二石余、幕末は下妻藩領分五七二石余、養蔵ようぞう院除地一石、西光さいこう寺除地九斗余(各村旧高簿)。村の北に長塚新田があり、幕末の村高は一八二石余で、天領であった(同書)。鬼怒川沿いに対岸の貝谷かいや(現結城郡八千代町)と結ばれる渡船場があり、瀬戸井せどい街道の脇往還的役割を果した。


長塚村
ながつかむら

[現在地名]板倉町長塚

別所べつしよ川左岸に位置し、東は別所川を隔てて馬屋まや(現清里村)、西は坂井さかい村に接する。享徳二年(一四五三)一二月一二日の上杉家(房定)老臣連署奉書(村山氏文書)によれば、守護房定は守護代長尾邦景・実景親子追落しの際の村山義隆の軍忠に対し、その子義実に高山修理亮の所領であった長塚と宮島みやじまを与えた。正保国絵図に高二六〇石余とある。


長塚村
ながつかむら

[現在地名]秦荘町長塚

栗田くりた村の北東にあり、北は島川しまがわ村、北西は野々目ののめ村。江戸時代は彦根藩領栗田村の枝郷。元禄郷帳に栗田村枝郷長塚村とみえ、高一一七石余。文久二年(一八六二)上知。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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