長松寺(読み)ちようしようじ

日本歴史地名大系 「長松寺」の解説

長松寺
ちようしようじ

[現在地名]吉岡村漆原 上の原

漆原うるしばら西方鴻降こうのおり坂の坂上南にあり、威徳山常楽院と号し天台宗本尊は阿弥陀三尊。比叡山延暦寺の直末を誇った古刹で、伝えによると元亨年間(一三二一―二四)舜海を開山として漆原蕎麦石そばいし建立されたといい、長禄四年(一四六〇)と推定される九月一二日の長松寺東彝書状(正木文書)によると、東彝の知行する新田につた村田むらた(現新田郡新田町)三原田分・宮田分から、岩松持国の家臣達が人夫役を徴発しているが、同書状にみえる長松寺は当寺のこととも考えられる。


長松寺
ちようしようじ

[現在地名]相模原市新戸

はと川と相模川左岸用水の交わる間にある。曹洞宗、万年山と号し、本尊薬師如来。元徳三年(一三三一)六月九日長井高秀は書状(県史二)で建長寺安首座禅師に「座間郷内長松寺」を預け、父祖菩提供養を頼んでいる。応永三年(一三九六)の関東公方足利氏満寄進(当寺蔵)

<資料は省略されています>

とある。


長松寺
ちようしようじ

[現在地名]盛岡市仙北二丁目

不退ふたい院の西に隣接し万峰山と号し、曹洞宗。本尊は釈迦如来。寺伝によれば、六部行脚僧が木造阿弥陀仏を持参して仙北せんぼく町の横道(横町の意で、現在の墓地)に草庵を結び、浄土宗長昌寺と称したことに始まるという。寛永年間(一六二四―四四)当時の住職久誉残察が祇陀ぎだ寺五世然室芳天の徳風を慕って開山に招請、自らは開基となって曹洞宗長松寺と改めた。寛政九年(一七九七)本堂を建立、大正一三年(一九二四)現在地に本堂を移転し、旧本堂は紫波しわ都南となん乙部おとべ如法によほう寺本堂として現存


長松寺
ちようしようじ

[現在地名]大口町大屋敷 寺東

鶴立山と号し曹洞宗。本尊は薬師如来坐像。文禄二年(一五九三)久山の開基(尾張志)。元禄六年(一六九三)七月、中島郡奥田おくだ(現稲沢市)から現在地に移る(小治田之真清水)境内に享保一六年(一七三一)創建の地蔵堂がある。ここに県指定文化財の室町初期と推定される丸鋳の鋳鉄地蔵菩薩像(像高九七・四センチ)安置

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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