志村(読み)シムラ

デジタル大辞泉 「志村」の意味・読み・例文・類語

しむら【志村】

姓氏の一。
[補説]「志村」姓の人物
志村正順しむらまさより
志村喬しむらたかし

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

日本歴史地名大系 「志村」の解説

志村
しむら

[現在地名]板橋区志村一―三丁目・坂下さかした一―二丁目・東坂下ひがしさかした一丁目・小豆沢あずさわ一―三丁目

小豆沢村の西に位置し、村の中ほどを南北に中山道が通る。往還の両側に一里塚(志村一里塚として国指定史跡)が設置され、榎が立っていた(宿村大概帳)。北西の蓮沼はすぬま村との入会地に道生どうじよう沼・うしろ沼がある(風土記稿)

「風土記稿」によると、中世には志村・中台なかだい村・西台にしだい村・蓮沼村を合せた地域を「志村庄」と称したという。豊島系図(「山門氏系図」鹿児島県歴史資料センター黎明館蔵)には一一世紀後半に活躍した豊島常家の弟として「四村家村」が確認され、これは志村氏を示しているとみられる。同系図の価値は高く、志村氏の創出時期が豊島氏の成立と同時期であることから、豊島郡域における豊島氏と志村氏の展開過程の再評価が求められる。「吾妻鏡」文治二年(一一八六)三月二七日条には、北条時政上洛の警固人のうちに「しむらの平三」がみえ、以降志村氏は同書に頻出する。鎌倉時代の志村氏を秩父平氏豊島一族とせずに、有道姓児玉党とする説もあるが(埼玉県史)、前述のように志村氏は豊島氏から分出したとみられる。建治元年(一二七五)五月日の六条八幡宮造営注文(国立歴史民俗博物館蔵)には、六条八幡宮(現京都市東山区の若宮八幡宮社、中世は同市下京区に所在)の造営役を負担した武蔵国の者のなかに「志村人々 五貫」とあり、当地域が中世の人々が集住する場となっていたことがうかがえる。


志村
しむら

[現在地名]大分市志村

大野川右岸河口に位置し、北は海、西は同川を隔てて小中島おなかしま村・鶴崎つるさき町。鶴崎町からきた伊予街道の渡河は船渡し。大分郡に所属。慶長豊後国絵図に村名がみえ高八九七石余。江戸時代を通じて肥後熊本藩領で、高田手永近在四ヵ村のうち。文化一〇年(一八一三)当時は上志村と下志村に分れていたが、庄屋は一人で藩による公式の支配単位としては一ヵ村であった(高田風土記)。「肥後国誌」によると「田中村・小路村・松葉村・洲ケ村」などの小村がある。

寛永一一年(一六三四)の熊本藩豊後国郷帳によると高二九七石余。正保郷帳によれば田高一五〇石余・畑高一四六石余、大佐井おおざい郷に所属。


志村
しむら

[現在地名]新井市志

矢代やしろ川の右岸、両善寺りようぜんじ村下流にあり、数集落からなる。村域内にしようじめん正円しようえんの地字があり、庄園の散在地があったとみられる。正保国絵図に高三三一石余とある。天和三年(一六八三)検地帳(中島一雄氏蔵)によると、田三二町一反余・畑四町六反余、うち屋敷一町五反余である。天和三年郷帳では高三八二石三斗余、うち山高三斗八升五合・漆高一斗一升五合とあり、ほかに新田高一五石三斗余が記される。これとは別に志村新田高一〇三石がある。志村新田は元禄郷帳では志村枝郷と注記される。


志村
しむら

[現在地名]筑後市しむら

矢部やべ川右岸、尾島おしま村の西に位置する。西は常用つねもち村。文禄四年(一五九五)の知行方目録に鶴田つるだ村のうち「志村」とあり、高二三九石余。本高は二四三石余(元禄国絵図)。「在方諸覚書」では古高三一〇石・役高二七八石。享和二年(一八〇二)の春免高帳によると高二七八石。文化四年(一八〇七)の畝付帳では本田一五町二反余・開田一反余・畑田八反余・畑四町九反余・居屋敷二反余。旧高旧領取調帳では高三七二石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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