日本大百科全書(ニッポニカ) 「長寛勘文」の意味・わかりやすい解説
長寛勘文
ちょうかんかんもん
勘文とは先例などを調べて提出する上申文書の意で、これは平安末期熊野権現(くまのごんげん)社からの訴えに端を発する一連の勘文を集めたもの。いずれも長寛年間(1163~65)の勘申であることから長寛勘文と総称される。すなわち、甲斐守(かいのかみ)藤原忠重が、同国目代(もくだい)中原清弘と在庁官人三枝(さいぐさ)守政らに命じて熊野権現社領甲斐国八代荘(やつしろのしょう)(山梨県笛吹(ふえふき)市八代町)を停廃し、年貢を強奪したとの熊野所司の提訴について、1163年(長寛1)大判事兼明法博士(みょうぼうはかせ)中原業倫(なりとも)は断罪勘文を進めたが、業倫の根拠とした熊野権現と伊勢(いせ)大神宮の同体説をめぐってその可否が断罪以上に大問題となり、同年から翌64年にかけて種々の勘文が提出された。ここには業倫ほか6人(つごう8通)の勘文が収められ、伊勢・熊野の祭神問題について意見が述べられている。平安末期の国衙(こくが)と荘園の抗争を示すとともに、当時の熊野信仰のあり方を知るうえでも重要な史料(『甲斐叢書(そうしょ)』『群書類従』所収)。これを解説したものに1653年(承応2)豊受(とようけ)大神宮宮掌大内人(おおうちびと)与村(よむら)弘正の著した『長寛勘文或問(わくもん)』がある。
[瀧浪貞子]